斗南藩や五稜郭の歴史学ぶ 「おとなの社会科教室」戊辰戦争150周年ツアー

復元された箱館奉行所の説明を受ける参加者

来年の戊辰戦争150年を記念した福島民友新聞社のツアー企画「おとなの社会科教室」が9月26、27の両日開かれた。

参加者は初日、青森県三沢市にある道の駅みさわ斗南(となみ)藩記念観光村の先人記念館を訪れ、戊辰戦争後に会津藩士の多くが移住した斗南藩の歴史を学んだ。

27日は、戊辰戦争最後の激戦「箱館戦争」の舞台となった北海道函館市を訪れ、幕府軍の拠点だった五稜郭(ごりょうかく)公園などを巡り、幕末の歴史に理解を深めた。

同ツアーは、明治維新を再検証する大型企画「維新再考」を連載する福島民友新聞社の主催。県内から約25人が参加した。

 

◆日本初の洋式牧場 元会津藩士・広沢安任が開設

南部藩の広大な馬の牧場地だった青森県三沢市。平原の一角にある先人記念館は、明治の初めに日本初の民間洋式牧場を開設した斗南藩士(元会津藩士)の広沢安任(1830~91年)など同市の発展に貢献した先人の業績を紹介している。

「大河ドラマ「八重の桜」にも登場した広沢は下級武士でしたが、戊辰戦争で表舞台に登場しました。会津藩公用局に配置され、京都で多くの知識人と交友を結んだことが、後の活躍につながったのです」。学芸員の吉田幸弘さんは、広沢の功績を紹介した。

「広沢は京都に行く前に箱館奉行に同行して北海道にも渡っています。その途中、青森を通り、どのような土地であるかを知っており、『会津藩の再興はこの地で』と主張したのではないでしょうか」と分析する。

広沢は斗南藩が廃藩置県でなくなった後、藩士らの働き先として日本初の洋式牧場を開設した。「一番の目的は、佐久間象山の影響を受け、栄養価の高い乳製品を生産し、日本人の体力向上に貢献するという理想を実現するためでした」

斗南藩には会津から1万7千人が移住した。「名目は3万石でしたが、実際は7千石ほどで、生活は悲惨を極めました」。吉田さんは会津人の苦労を語った。

広沢の盟友で、京都府顧問を務め、京都の発展に大きく寄与した、「八重の桜」の主人公山本八重の兄覚馬にも触れ、「その逆境を乗り越えて活躍した会津人が、日本の発展の礎を築きました。特に広沢は、津軽藩と南部藩の橋渡し役を務め、青森県の誕生にも大きく貢献、『野にあって国家に尽くした』偉大な人物として記憶されています」

遠い北の大地に、会津人の活躍の記憶が今も残る。

◆フェリーで函館へ

ツアーの一行は、先人記念館を見学後、津軽海峡フェリーで函館市へ向かった。船中では特別に操舵(そうだ)室や船内を見学。函館市では、函館山から宝石のように輝く夜景を楽しんだ。

27日は土方・啄木浪漫館を訪れ、函館に足跡を残した2人の生涯に理解を深めた。昼食では魚来亭でおいしい料理を味わい、浪江町出身の女将(おかみ)久保利江さんと古里談義に花を咲かせた。

◆「箱館戦争」の激戦地 函館の五稜郭

津軽海峡を望む北海道の南の玄関口・函館市。戊辰戦争最後の激戦地跡の五稜郭公園は、大勢の観光客でにぎわいを見せていた。1869(明治2)年の「箱館戦争」で旧幕府軍が拠点とした要塞(ようさい)・五稜郭跡で、当時の激戦をしのばせる。

隣接する五稜郭タワーの眼下に見える五稜郭は、星形をした日本初の西洋式城郭だ。日本の城を見慣れた目には、近代的な姿に映る。

五稜郭の誕生は、徳川幕府が、1853(嘉永6)年に来航したアメリカ艦隊(黒船)の要求を受け入れ、54(安政元)年に日米和親条約を締結し、「箱館」を開港場とした時にさかのぼる。

徳川幕府が、箱館を統治するために「箱館奉行所」を置いた。防備を強化するために、「箱館諸術調所」教授の武田斐三郎(あやさぶろう)(1827~80年)に命じ、ヨーロッパの城郭都市をモデルに考案された。「幕府が、外国勢力と戦うために造った、当時最新鋭の要塞でした」。

時折、ユーモアも交えた五稜郭タワー企画室長の木村朋希さんの語り口に、参加者は熱心に聞き入っていた。

「星形をしているのは、銃や大砲が主力になった近代戦で、防御側の死角を少なくするために考案された構造です」。海から遠く、砲弾の届かない場所に建設され、星形の角に設けられた銃座の場所から死角がなくなるように城壁の角度まで計算されている。

「脱走した旧幕府軍が、ここを拠点に戦いました。幕府に迷惑を掛けないように”脱走”の形にしただけで、彼らの幕府への忠誠心はとても厚かったのです」

1868(明治元)年、旧幕府海軍副総裁の榎本武揚(えのもとたけあき)は、艦隊を率いて江戸湾から”脱走”し、途中で陸軍を乗せ蝦夷(えぞ)地に上陸し、五稜郭を拠点とした。新撰組の土方歳三(ひざかたとしぞう)ら旧幕府軍の精鋭がこの地に集った。

榎本たちは同年12月、政権を樹立。「榎本は徳川家臣による蝦夷地開拓の許可を明治政府に求めましたが、認められずに箱館戦争が始まりました」。幕府再興の夢はついえた。

69年5月12日、新政府軍の総攻撃が始まった。新政府軍の艦船から最新鋭の大砲の砲弾が、五稜郭の箱館奉行所に打ち込まれた。

「奉行所の太鼓やぐらが標的になりました。その時、旧幕府軍は最後の宴を開いており、松の枝に死体がぶら下がるなど悲惨なものだったそうです」。木村さんは当時の状況を解説した。

取り残された仲間の救出に向かった土方も銃弾を受け戦死。五稜郭も新政府軍に包囲され、旧幕府軍は降伏し、戊辰戦争はついに終結した。

当時のままに再建された箱館奉行所。その前を悲惨な歴史などなかったかのように観光客が行き交い、時の流れを感じさせた。

 

【ズーム】斗南藩 会津藩が再興を許された土地は、旧盛岡藩領の3万石、北郡(青森県下北地方)、三戸郡(青森県三戸郡)、二戸郡(岩手県二戸郡の一部)。藩主は松平容保(かたもり)の嫡子(ちゃくし)の容大(かたはる)。藩名の「斗南」は、詩文「北斗以南皆帝洲」に由来するともいわれる。1870(明治3)年、旧盛岡藩五戸代官所(五戸町)に仮の藩治所を置いた。名目3万石だが、領内は冷涼な気候で、未開の荒野が広がり、実際は7500石ほどの生産力しかなかったといわれる。そこに会津から約2800戸、約1万7千人が移住。藩からのわずかな支給米を受けながらの開墾生活は、常に食糧不足と病気に見舞われ、冬季には多くの人が亡くなった。71年の廃藩置県まで存続した。

◆企画・制作/福島民友新聞社広告局