「会津武士」逆風に対処 梶原平馬、山川浩、柴五郎が町野主水へ手紙

斗南藩成立前後の藩士の動向や経済事情に触れた梶原平馬の手紙の1枚

150年前の会津藩消滅時に家老などを務め、藩再興に奔走した梶原平馬(かじわらへいま)と山川浩(やまかわひろし)、さらに会津藩士の子で後の陸軍大将、柴五郎(しばごろう)の3人がそれぞれ明治以降、会津在住の元藩士、町野主水(まちのもんど)に出した手紙計3通が、東京都の町野の曽孫宅で見つかった。

文面を読み解いた直木賞作家の中村彰彦さん(69)によると、旧会津藩が斗南藩として復活する1870(明治3)年ごろの藩士たちの動向や経済事情に触れた梶原の手紙をはじめ、いずれも明治、大正の「会津武士」の生活ぶりや人柄が分かる貴重な史料という。

手紙の日付は、梶原が4月1日。年は書かれていないが、中村さんによると内容から1870年と判別できる。山川は89(明治22)年9月5日。柴が1919(大正8)年9月14日。毛筆で書かれている。

会津藩最後の筆頭家老で戊辰戦争直後は東京で謹慎した梶原の手紙は薄紙2枚。1枚目冒頭の「高田脱走惣調(そうしらべ)/東京脱走惣調/無宿者惣調」の3行に続き、戊辰戦争後に旧藩士が収容された越後高田(現新潟県上越市)、東京両謹慎所からの脱走者の調査が終わり、脱走先から戻った者、戻る見込みの者の家にも1日に付き1人当たり4合の玄米を給付し、台所事情が厳しい家には申し出れば対応する―などと記されている。

中村さんは「平馬は脱走に頭を痛め、また70年4月の斗南藩成立で政府による給付が藩の手に移り、扶持(ふち)高は半分以下にせざるを得なかった。そして会津残留者たちにも同じ扱いをする必要を考え、扶持高改定を町野にも伝えた。東京と会津、越後高田で連絡し合い時代の逆風に対処していた状況が分かる」としている。

◆律義な会津人浮かぶ 子孫宅から3通の手紙

会津藩士の子孫宅から見つかった3通の手紙。その文字や文面からは、梶原平馬、山川浩、柴五郎の幕末から明治を生きた会津人3人の思いや、律義な人柄が浮かび上がる。同時に、手紙を受け取った「最後の会津武士」と言われる町野主水の新しい人物像も見えてくる。

手紙は、主水の曽孫、町野英明さん(74)=東京都=が、先祖伝来の資料の中から見つけ、親交のあった作家の中村彰彦さんに解読を託した。

このうち梶原の手紙は、独特の和風漢文で筆字が読みづらく、森川昭・東京大名誉教授と、会津史学会会員の三角美冬さんの協力で解読した「難物」だが、中村さんは「斗南藩成立前後の歴史の空白を埋めるような史料。それに平馬の肉筆は初めて見た。彼は青森県を辞職した後の足取りがほとんど不明。この世に残した最後の足跡では」と話す。

山川の手紙は、主水の次男武馬を山川が書生として東京で預かった時の教育費の受取証で、「一金五拾円也」とある。この金額と署名には、「山川」の朱印が押されており、中村さんは「山川の律義さを感じさせる」と言う。

主水が81歳の1919(大正8)年に受け取った柴(当時陸軍大将)の手紙は横1メートル、縦18センチの薄紙に1行10字前後がきっちりと書かれた大作。封筒には宛先と自身の氏名、住所がはっきりと記されている。

内容は、柴家の先祖が着用した兜(かぶと)を、主水から譲り受けたことに対する礼状。兜は、戊辰戦争で行方不明になっていたものを主水が買い取り所蔵し、これを柴の兄五三郎が譲渡を申し入れたという。

中村さんは「手紙は、きちょうめんな筆遣いの読みやすい文章で、会津の先輩への深い敬愛を示し、人柄の良さが分かる」と言い「柴家は戊辰戦争で女性が自刃し、五郎らは斗南に移住。家宝など何もなかった。主水は同じ全てを失った者同士、心情を理解したのだろう」と主水の心中も察する。

この主水について中村さんは「3通の手紙からは、各地の会津人のセンター的役割だったことが見える。これまで、主水は会津に残った頑固者といった評価が強かったが、最後の会津武士として再評価されるべきだ」と話している。