義の心を現代に伝えて 若松で講演・シンポジウム「それからの會津」

「それからの會津」をテーマに戊辰戦争からの会津の歩みを考える戊辰150年を記念した講演・シンポジウムは4日、会津若松市で開かれた。会津松平家14代当主・松平保久(もりひさ)氏(64)は講演で「愚直に生き抜いた先人を誇りにし、義の心を現代に継承することが大事」と語り掛け、松平氏ら3人によるシンポジウムでは「勝者視点で語られる歴史認識との隔たりを埋め、未来につなげることが大事」などの声が出た。

歴代会津松平家藩主を顕彰する会津松平家奉賛会(林健幸会長)が戊辰150年の節目に合わせて主催。「藩は一方的に朝敵の汚名を着せられ、2973人の犠牲者が出たという記録も残る。降伏文書に『世を乱したのは自分の責任』と記した容保(かたもり)だが、悔しさはどれほどだったろう」。松平容保のひ孫に当たる保久氏が発する重い言葉に、来場者は真剣なまなざしで聞き入った。シンポジウムでは、松平氏、在京の会津出身者らでつくる会津会会長でNHK解説主幹の柳沢秀夫氏(64)、直木賞作家の中村彰彦氏(68)が意見を交わした。

「鶴ケ城落城という表現は間違い。落城であれば生存者はいないはずで、鶴ケ城は開城したのだ」。「歴史を意図的に誤訳するような表現がある」という中村氏の指摘で討論は熱を帯び、「歴史書は誰が書いたかも重要」(柳沢氏)、「恭順の意を示したにもかかわらず、戦争ありきで会津の悲劇が生まれていったのでは」(松平氏)などの意見も出た。また、柳沢氏は「全国に優秀な知人がいた藩士秋月悌次郎のような人脈と情報があれば違う歴史になったかもしれない」と語った。

会場では、福島民友新聞社の大型連載企画「維新再考」の保存版なども配布された。

◆松平氏「愚直に生きた先人誇り」

松平保久氏は講演で、会津藩の視点から戊辰戦争のきっかけや「塗炭の苦しみ」と表現される斗南藩時代の生活を語り、「明治維新で近代化を成し遂げたといわれるが、本当にそうだったのか疑問に思う。容保は晩年、ほとんど戊辰の話をしなかったようだが、京都守護職就任からの数年間で激しすぎる時代を過ごし、理不尽な結果は受け入れ難かっただろう」と語った。また、会津藩の高い教育レベルなどに触れ、「愚直で優しいのが会津人の特長。愚直に生き抜いた先人を誇りにすべきだ」と述べた。

会津松平家14代当主・松平保久氏

◆会津松平家14代当主・松平保久氏 隔たり埋めて未来へ

会津藩士秋月悌次郎が鶴ケ城開城後、藩の減刑嘆願のため越後駐留中の旧友・長州藩士奥平謙輔を訪ねた帰り道、越後街道束松(たばねまつ)峠で「北越潜行の詩」を詠んだ場所を訪ねた。何ともいえない気持ちになった。

西郷隆盛は倒幕という当初の目的は達成したのに、さらに江戸で騒動を起こした。最初から「戦争ありき」だったのだろうか。会津の歴史は誇りを持ってしかるべきだ。会津は義を大切にし会津人としての生きざまを守ってきた。場所が違えば歴史認識には隔たりがあるが、それを埋めつつ自分たちの未来につなげたい。

会津会会長・柳沢秀夫氏

◆会津会会長・柳沢秀夫氏 誤った情報が悲劇に

歴史書を誰が書いたのかも重要。立場によって百八十度違う歴史になりかねない。刷り込まれがちだが、疑ってかかることも大事だ。

会津藩は恭順の意を示したのに、奥羽鎮撫総督府下参謀の長州藩士・世良修蔵(せらしゅうぞう)は耳を貸そうともしなかった。横暴な振る舞いで悪名が高かった世良だが、下参謀が世良ではなかったら違う道もあっただろうか。

人脈、情報がもう少しあれば別の道を歩めたかもしれない。今にも通じるが、的確な情報を持っているかどうかで判断は違ってくる。誤った情報が悲劇に結び付いたのかもしれない。

直木賞作家・中村彰彦氏

◆直木賞作家・中村彰彦氏 痛かった秋月の左遷

開城式の際、路上に敷かれた緋毛氈(ひもうせん)は後に「泣血氈(きゅうけつせん)」と呼ばれ、会津藩の屈辱を示す象徴となった。松平容保が孝明天皇から賜った緋(ひ)の衣と同じ色で会津藩にとっては誇りだったが、屈辱と悲しみの色に変わった。

会津藩にとっては、藩内のねたみから秋月悌次郎を左遷させてしまったことが痛い。外交政策を担っていた秋月がいなくなったことで、アンテナがさびついた。

会津藩は斗南で再興を許されたが、猪苗代という選択肢もあった。不毛の地であるという情報が少なく、町野主水(もんど)らが主張した猪苗代の案が消えてしまった。