【維新再考・100日間の攻防】白河編4 「落とせぬ戦い」泥沼化

戊辰戦争の勝敗を決定づけたとされる「白河口の戦い」は、約100日間に及んだ。しかし、東北諸藩による同盟軍と新政府軍は互いに、なぜ白河にこだわり続けたのだろうか。白河小峰城を訪れた会津会会長でNHK解説主幹の柳沢秀夫さん(64)=会津若松市出身=が150年前の状況を考えた。

白河のシンボル小峰城を背に人見さん(中央)、植村さん(右)の解説を聞く柳沢さん

◆柳沢秀夫さんと歩く

「美しい城ですね。どことなく鶴ケ城に似ている」

東北三名城の一つで、白河市のシンボル白河小峰城に足を踏み入れた柳沢さん。この日は休日の午後とあって、芝生が張られた二の丸では親子連れらが憩いのひとときを過ごしていた。

小峰城が現在の総石垣造りの平山城に整備されたのは江戸時代前期。棚倉藩から移った丹羽長重(子の光重が後の二本松藩主)が4年かけて完成させた。それも7家21代の支配を経て戊辰戦争で焼失した。明治以降は野球場や県立農学校(現在の岩瀬農高)などの利用を経て、1991(平成3)年「三重櫓(やぐら)」、94年「前御門」が木造で再現され国指定史跡となった。東日本大震災で石垣が崩壊したが、2013年から修復が始まり、4月時点で約9割の作業を終え、本年度中に完了する。

「ようこそ『奥州関門の名城』へ。お待ちしてました」。白河市の白河戊辰150年記念事業実行委員会長の人見光太郎さん(75)、市文化財保護審議委員の植村美洋さん(61)と二の丸で落ち合った。人見さんは、白河の文化や歴史などの地域資源を通して魅力あるまちづくりにつなげる活動を続けている。植村さんは白河の戊辰戦争の歴史に詳しく、白川悠紀のペンネームで「白河大戦争」を発刊した気鋭の作家でもある。

二人は戊辰150年の節目を機に、白河の激戦を広く知ってもらいたいと熱意に満ちていた。当然、柳沢さんと意気投合し、会話を弾ませながら見晴らしのよい本丸へ歩みを進めた。

◆同盟軍、連携とれず?

「白河は関東や江戸に通じる奥羽最南端の交通の要衝。街道が東西南北あらゆる方面に通じている」と語り出す人見さん。白河は新政府軍にとって会津攻めの絶好の拠点であり、逆に会津藩からみると絶対に奪われてはいけない急所だった。柳沢さんは「会津藩は白河口の戦いに重点を置いていた。100日間も戦いが続いたのは、白河がいかに重要だったかの裏返しですね」と応じた。

慶応4(1868)年5月1日、旧奥州街道沿いの要・稲荷山を巡る戦闘で、会津藩や奥羽列藩同盟軍は新政府軍の猛烈な攻撃を受け約700人の戦死者を出し、小峰城から撤退した。同盟軍側は阿武隈川以北に拠点を移し、小峰城を奪い返すために7月まで何度も戦闘を繰り広げたが、大きな戦果を上げることはなかった。

「会津藩は会津街道、棚倉藩は東側から攻めるなど全方位から攻めて力を分散させようとした。それでも兵力が少ない新政府軍はうまく戦った」と植村さん。すかさず柳沢さんが「兵力で上回る会津藩や同盟軍はなぜ不利に」と疑問をぶつけると、「実戦経験のない藩同士の寄せ集めで連携が悪く、優れた指揮官もいなかった。銃器や軍装も旧式だった」と指摘し「局地戦で勝ったとしても、大局では負けるべくして負けた」と言い切った。

新政府軍も、兵力が不足し、敵を追走して全滅させるまでは手が回らなかった。この時期、江戸では幕臣らがつくる彰義隊との衝突が続き、下野(現栃木県)でも戦闘が続いていた。そのため小峰城を占拠した新政府軍には増援や補給が行われず、防御で精いっぱいだった。このことも白河口の戦いが長期化する一因となった。

旧幕臣らは5月1日以前、同盟軍に「境の明神」(現県境)に防御線を設け、厳戒態勢を敷くことを提案した(「若松記節略」)が、生かされなかった。人見さんは「そもそも小峰城は北側の防備は強いが南側からの攻撃には弱い。同盟軍にはおごりがあった」と推察した。

「では、優秀な指揮官がいれば多くの血を流さず済んだのか」。柳沢さんは自問自答しながら「藩主松平容保(かたもり)の首を執拗(しつよう)に求める新政府軍が迫る状況では、戦わざるを得ない。100日の戦闘には会津藩士の執念が込められていた」と、先人たちの胸中をおもんぱかった。

【補助線】≫≫≫ 薩長排除へ政治力駆使

慶応4(1868)年5月3日、東北地方の25藩(会津、庄内両藩除く)による奥羽列藩同盟が正式に成立した。同じ頃、北越(現新潟県)の諸藩も新政府軍に反発を募らせていた。翌4日には長岡藩が新政府軍の侵攻を機に同盟に加わり、6日までには新発田藩など5藩も加盟、北越戦争へとなだれ込んでいく。そして奥羽と北越計31藩による「奥羽越列藩同盟」が形成されていった。

同盟の最も注目すべき点は、その政治活動だ。盟約書は「諸藩が協力して”公平正大”の道を守り、朝廷を尊重し、民を助け、皇国を維持する」とあり、同盟藩の会議を重視している。盟主には上野寛永寺貫主で徳川家救済に動いた輪王寺宮(後の北白川宮能久親王)が就き、権威を高めた。旧幕府老中や同盟諸藩、会津、庄内両藩の重臣が白石城(現宮城県白石市)で軍略や治民、会計の議事を行った。

同年6月には「討薩の檄文(げきぶん)」で薩摩藩の専横ぶりを列挙し、全国諸藩で薩摩藩を討つことを呼び掛けた。7月には全国の諸藩や諸外国に同盟の正当性を主張した。さらに薩長両藩の排除に向けて有力諸藩(筑前、肥前、水戸、加賀など)との連携工作を展開。特に熊本藩(熊本県)とは水面下で奥羽越との共同歩調を検討していた。

やなぎさわ・ひでお 1953年、会津若松市生まれ。会津高、早稲田大政治経済学部卒。会津藩士の子孫。77年にNHK入局、横浜、沖縄各放送局記者を経て84年から外信部記者。バンコク、マニラ各特派員、カイロ支局長を歴任しカンボジア内戦、湾岸戦争などを取材した。現在はNHK解説主幹で、生活情報番組「あさイチ」に3月まで出演していた。2017年から会津会(東京)の第8代会長。64歳。

※「戊辰戦争」「明治維新」を新たな視点で問い直す長期大型連載「維新再考」は、引き続き福島民友新聞で毎週月曜日に掲載します。どうぞお読み下さい。

連載「維新再考」の保存版は、第1部「識者に聞く」のうち、「半藤一利さん編」(全7回)、「中村彰彦さん編」(全7回)、「磯田道史さん編」(全3回)、「森田健司さん編」(全7回)の4編があります。福島民友販売店で無料で提供しています。問い合わせは福島民友新聞社販売局(電話024・523・1472)へ。