【維新再考・100日間の攻防】白河編5 川染まり、住民も犠牲に

戊辰戦争の勝敗を決定づけたとされる「白河口の戦い」を主軸にした「維新再考」白河編。会津会会長でNHK解説主幹の柳沢秀夫さん(64)=会津若松市出身=が登場するのは今回が最後。白河口の戦いの戦死者数は、会津藩や旧幕府兵、奥羽越列藩同盟軍(以下、同盟軍)と新政府軍を合わせて千人以上ともいわれる。第5回は戦死者に焦点を当てていく。

「血染めの川」と呼ばれた谷津田川の円明寺橋付近を歩く柳沢さん。現在は美しく整備され、面影はない=白河市円明寺

◆柳沢秀夫さんと歩く

「とても美しい景観。本当にここが”血染めの川”ですか」。白河市中心部を東西に流れる谷津田(やんた)川に架かる円明寺橋周辺を柳沢さんが歩いた。

◆仁の心で両軍を供養

川の別名の理由は白河口の戦いにある。白河小峰城が新政府軍に占領される旧暦の1868(慶応4)年5月1日(以下全て旧暦)以降、捕虜となった同盟軍兵らが斬首され、円明寺橋(当時は土橋)から死体が捨てられ、川が真っ赤に染まったという。とはいっても現在は河川改修がなされ、街並みに調和した環境になっている。

当時の住民の目撃談が残る。「生け捕りとなった東軍(同盟軍)は翌日(5月2日)に橋の所で斬られ、胴も頭も川に捨てられた」(「戊辰白河口戦争記」)

城下各地では5月1日以降、新政府軍の残虐行為や略奪行為が目立つ。「(避難先から)帰ると家が”官軍様”に占領されていた」「生け捕りとなった16~17歳ほどの兵6人が『首を差しのべよ』と言われ、覚悟したように西に向かって手を合わせ、立派に斬首された」(以上「同戦記」)という状況だった。また、城下の豪商は「5月11日、店の様子を調べに行ったら土蔵が散々に略奪されていた」(「荒井治良右衛門慶応日記」)と記した。

このほか、同盟軍や新政府軍に軍夫として酷使され、戦火で家や家財道具を失い、同盟軍に協力したとの理由で斬殺された―といった記録もある。住民は日常を奪われた一方で、戦闘が終われば同盟軍や新政府軍の戦死者を分け隔てなく供養した。白河市周辺には住民が建立した墓や慰霊碑、埋葬の伝承が多い。円明寺橋のたもとにも、同盟軍の死者を弔うため地元住民が建立した慰霊碑「南無阿弥陀仏碑」がひっそりとたたずんでいる。

「当時は凄惨(せいさん)な光景だったろう。戦争に巻き込まれた庶民が後に戦死者の供養を行う。白河の仁の心を感じる」と慰霊碑に手を合わせる柳沢さん。戊辰戦争にこだわる会津人だが「白河口の戦いをいかに知らなかったか思い知った」と振り返る。歴史の継承の大切さを痛感し「150年の節目は、悲惨な歴史を繰り返さない教訓を見つける機会にしたい」と思案した。

白河周辺での同盟軍、新政府軍の戦死者は千人超とされる。大激戦の5月1日の戦いをみると、新政府軍の複数の記録は同盟軍戦死者を700人前後とするが、同盟軍の合計は約320人と少ない。これは詳細不明の旧幕府兵らの戦死者が含まれていないためである。旧幕府兵らを加えると差は縮まるが、実数は不明だ。「会津もですが、わずか150年前でも分からないことだらけだ」と柳沢さん。

同盟軍の戦死者は個別に埋葬された人は一部で、多くは大きな穴にまとめて埋葬された。会津藩戦死墓がある稲荷山周辺にはいくつも穴を掘った。旧奥州街道と旧会津街道の分岐点近くにある「仙台藩墓所」(白河市女石)を訪ねると、戦死した仙台藩士約150人がまとめて葬られ、供養塔と石碑があるのみだった。一方で、新政府軍の戦死者が眠る長寿院(同市本町北裏)では個別の墓石が建立され、整然と並んでいた。柳沢さんは違いを目の当たりにして驚いていた。

「新政府軍は知識や経験を持った戦闘巧者。同盟軍は装備や戦法が古く、連携も悪い。戦死者数からみても『プロとアマ』の差があった。会津藩ならば戦力差を知っていたはず」と推察。最近になって戊辰戦争の回避方法を考えるようになったといい「歴史に『もしも』は禁句だが、白河の大敗は一つのポイント。東北諸藩にとって悲劇の出発点」とし「ついに会津へと戦火が近づく。会津で悲劇の理由を考え直したい」と心に刻んだ。

◆釜子陣屋は同盟軍加勢

現在の白河市東部やその周辺は江戸時代、譜代大名の越後高田藩(現在の新潟県上越市)の領地だった。江戸時代後期の陣屋は現在の白河市東(旧東村)の釜子に置かれ「釜子陣屋」と呼ばれた。戊辰戦争時、高田藩は新政府軍に従い、長岡藩(現在の新潟県長岡市)や会津藩を攻めた。一方、陣屋の高田藩士は同盟軍に加勢し新政府軍と戦った。

対応が分かれた理由は、本藩から伝令が届かずに陣屋独自で判断したためといわれている。出陣した高田藩士らは総勢36人。白河の戦況悪化に伴って領民を避難させ、陣屋を焼き払って会津に向かった。鶴ケ城の城下などで戦いを繰り広げ、17人が戦死した。生き残った高田藩士は戊辰戦争後、藩から謹慎を命じられるなどの処分を受けた。

後に旧会津藩士が「釜子陣屋から1万両の提供を受け、軍資金にした」と語っており、金銭面でも同盟軍に貢献していたことが分かる。陣屋近くには子孫が住み、長伝寺には藩士ら家族の墓が残る。近くの菓子店や酒蔵を中心に歴史を残そうとする動きもある。滝沢明峰住職(69)は「釜子陣屋の高田藩士は生き残るために必死に戦った。歴史に埋もれた釜子陣屋を知ってほしい」と語った。

やなぎさわ・ひでお 1953年、会津若松市生まれ。会津高、早稲田大政治経済学部卒。会津藩士の子孫。77年にNHK入局、横浜、沖縄各放送局記者を経て84年から外信部記者。バンコク、マニラ各特派員、カイロ支局長を歴任しカンボジア内戦、湾岸戦争などを取材した。現在はNHK解説主幹で、生活情報番組「あさイチ」に3月まで出演していた。2017年から会津会(東京)の第8代会長。64歳。

※「戊辰戦争」「明治維新」を新たな視点で問い直す長期大型連載「維新再考」は、引き続き福島民友新聞で毎週月曜日に掲載します。どうぞお読み下さい。

連載「維新再考」の保存版は、第1部「識者に聞く」のうち、「半藤一利さん編」(全7回)、「中村彰彦さん編」(全7回)、「磯田道史さん編」(全3回)、「森田健司さん編」(全7回)の4編があります。福島民友販売店で無料で提供しています。問い合わせは福島民友新聞社販売局(電話024・523・1472)へ。