【維新再考・100日間の攻防】白河編6 新政府軍苦しめた棚倉

「白河口の戦い」がテーマの白河編も最終回を迎える。会津藩や奥羽越列藩同盟の諸藩(以後、同盟軍)と新政府軍は1868(慶応4)年閏(うるう)4月から7月まで白河周辺で戦闘を繰り広げた。同盟軍は6月下旬に棚倉城が落城した後も攻撃を仕掛けていくが成果は上げられなかった。新政府軍が戦線を北上させる動きに合わせ、白河小峰城の奪還を断念し約100日間の戦いは終結へ向かった。今回は落城した棚倉藩に焦点を当てる。

戦死した棚倉藩士らの名を刻んだ「弔魂之碑」。福井さん(右)が解説し、植村さんが先祖の名を見つけた=棚倉町・蓮家寺

◆援軍来ず無念の落城

藩主阿部家は1823(文政6)年から白河を治め、64年に藩主阿部正外(まさとう)が幕府老中に就くが、兵庫開港の責任を負わされ、66年に長男正静(まさきよ)に家督を譲り、棚倉転封を命じられた。このため白河口の戦いでは白河小峰城が空き城だった。棚倉藩は同盟軍として戦い、50人超の戦死者を出した。

「幕末の阿部家は不遇な運命にあり、棚倉の民衆も町が焼かれて大きな被害を受けた」と語るのは、白河市文化財保護審議委員の植村美洋さん(61)=棚倉町出身。6代前の先祖は棚倉藩の下級藩士植村半蔵で、白河の稲荷山で銃撃された後に死亡している。半蔵の従軍日記を読んで研究を深め、著書「白河大戦争」を発刊している。

頼もしい同行者と棚倉城へ向かう。堀や土塁などがよく残っている本丸跡に着くと、植村さんは「藩士の子孫として特別な場所」と辺りを見渡しつつ「子どもの頃には闘犬や自転車競技を観戦した」と思い出を振り返った。

新政府軍は68年6月、小峰城への援軍を増やし、平潟港(現在の茨城県北茨城市)にも兵を上陸させた。そのため沿岸部と白河の間に位置する棚倉城が連携の障害になった。くしくも棚倉藩は白河や平潟方面に出兵しており、領内の守備兵は十分ではなかった。

6月24日、新政府軍800人は白河から棚倉に進軍し、棚倉藩士らの抵抗を撃破しながら城下に迫った。率いたのは、後に自由民権運動の指導者として活躍する土佐藩士の板垣退助だ。城には前藩主正外やわずかな兵しかおらず、城や城下の一部を焼き、後に飛び地の保原陣屋(現在の伊達市保原町)まで退いた。援軍なく棚倉城は一日ももたずに落城した。その後、新政府軍は1カ月ほど駐留したため、城下では略奪や食料問題が発生し「棚倉から鶏がいなくなった記録が残るほどだった」(植村さん)という。

「仙台鴉(からす)に十六ささげ なけりゃ官軍高枕」。旧領である白河の地理に詳しい棚倉藩士でつくる攻撃部隊「十六ささげ」(豆の「ささげ」が由来)と、仙台藩士率いる「鴉組」は勇猛果敢に攻めた。十六ささげは夜陰にまぎれ、襲撃する神出鬼没の戦いで新政府軍を恐れさせた。白河の民衆はその戦いぶりが痛快で前述の唄を残した。

藩士が密議を開いて十六ささげが結成された「宇迦神社」も訪問した。棚倉の鎮守として親しまれ、秋祭りなどでは大いににぎわうそうだが訪問日はひっそりしていた。十六ささげは隊長の阿部内膳が戦死したが、残った隊員で戦闘を繰り広げた。植村さんは「棚倉藩は藩主正外が洋式軍制に変えて調練に励んでおり、決して弱兵ばかりではなかった。兵力を集中して戦うことなく落城したので、無念だったろう」と思いをはせた。

「『忠魂』ではなく『弔魂』です。敗者は賊軍の時代ですから新政府に配慮した表現にしたのでは」と語るのは、名刹(めいさつ)・蓮家寺で生まれ育った福井節子さん(75)。境内には、1880(明治13)年に旧藩主阿部家が建立した藩士の戦死者や殉難者の名を刻んだ慰霊碑「弔魂之碑」が残されている。

植村さんは戦死した先祖の名前を見つけ、刻まれた文字をさすった。「先祖の犠牲を考えると新政府軍が東北を攻めたことに疑問を感じる」と戊辰戦争の傷痕について考える。戊辰150年の節目を機に「簡単に和解などできることではないが、互いの立場を理解することはできるのではないか。今年の節目はそういった新しい動きに期待したい」。

◆仇討ちは「逆恨み」か

白河口の戦いには後日談として、旧会津藩士田辺軍次の仇討(あだう)ちがある。田辺は1870(明治3)年8月11日、白坂宿(現在の白河市白坂)で、戊辰戦争時に新政府軍を道案内した白坂宿の大平八郎を斬殺し自決したとされる。仇討ち理由は「大平が道案内したため戊辰戦争で敗れたから」という。田辺の遺体は大平の婿養子の直之助が白坂宿の観音寺に墓を建て葬った。現在は白河市の稲荷山にある会津藩墓所に改葬されている。

大平は白坂宿の旅籠(はたご)に生まれたが、経歴はあまり知られていない。大平と関係が深い郷土史家石井勝弥の連載をまとめた「大平八郎と白河戦争」が詳しい。それによると、大平は京都の桂宮の屋敷で2年半にわたり奉公し、家来となって勤王思想を強めた人物だった。白河口の戦いでは、家来として新政府軍に名乗り、積極的に協力している。

「大平八郎は勤王思想が強く、宮家の家来の立場もあって道案内した。田辺の行為は仇討ちではなく『逆恨み』に近い」と指摘するのは、大平八郎のやしゃごの医師大平博三さん(70)=白河市。大平が殺された後、残された家族はさらなる報復を恐れ、しばらく隠れて暮らしたという。

観音寺にある大平八郎の墓を訪ねる人は多い。そのため博三さんは2016年、境内に案内看板を設置した。その際、同寺にある会津、長州など各藩士の墓の案内看板も立てた。「私も先祖と同じように分け隔てなく供養したい。八郎もだが、親の敵を弔った直之助が誇りだ。先祖の功績を語り継ぎ、仁の心を示したい」と語った。

※「戊辰戦争」「明治維新」を新たな視点で問い直す長期大型連載「維新再考」は、引き続き福島民友新聞で毎週月曜日に掲載します。どうぞお読み下さい。

連載「維新再考」の保存版は、第1部「識者に聞く」のうち、「半藤一利さん編」(全7回)、「中村彰彦さん編」(全7回)、「磯田道史さん編」(全3回)、「森田健司さん編」(全7回)の4編があります。福島民友販売店で無料で提供しています。問い合わせは福島民友新聞社販売局(電話024・523・1472)へ。