【維新再考・識者に聞く】半藤 一利さん(7) 国民に隠された真実

「維新再考」の半藤一利さん編・最終回は、薩長閥が主導権を握り造られた近代国家日本の、その後の歩みを論じる。出来上がった近代国家は、日露戦争の40年後、一度「滅亡」した。半藤さんは「一度考え直す」ことをせず「歴史を隠した」過ちを指摘する。

◆国家「滅亡」の要因に

日本という国は、軍事国家として明治13(1880)年ごろスタートし、政治、経済、外交の面での近代国家としては明治22年ぐらいから出発した。そして日清、日露という大きな二つの戦争を経て、世界の国々の一員にやっと入った。この期間が慶応元(1865)年からちょうど40年間。さらに日露戦争(1904~05年)から40年たった昭和20(1945)年、日本人は、その近代国家を戦争で滅ぼしてしまった。国家を造るのに40年、滅ぼすのにも40年かかった。

これが、まさに薩摩、長州が藩閥を築き、天下を取った時代だった。長州は陸軍を握り、薩摩は西南戦争で負けたので海軍に回った。そういうすみ分けをして、薩長の人々が国家を牛耳ってきた。

特に、昭和に入り戦争に突入していくまでの国家の在り方というのは、まさに薩長的だった。(明治維新というクーデターと同じように)天皇を敬い奉るような顔をして、本当のことは教えず、勝手に自分たちが戦争をやった。そして進んでいったら、止まらなくなってしまった。

当時の軍の参謀たち、あるいは革新外務官僚(注1)たちにあったのは「日本は世界に冠たる大帝国で、われわれは無敵である。従って正義は全部こちらにある」という考え方。これは当時の日本の教育の「成果」だと思う。

一方で、これを止めたのが、鈴木貫太郎(注2)などの「賊軍派」だった。

とにかく日本は、冷静に考えて、もういっぺん考え直して戻った方がいいんじゃないか―という時に戻らなかった。「その時」というのが、日露戦争が終わった時期だ。

日露戦争で長州出身者を中心とした国家は、国民に刻苦勉励を強いて、なけなしのお金を軍事につぎ込み、とにかく勝った。

しかし、本当はアメリカを仲介にして、やっと終わったのであって「勝った」なんて言ってはいけなかった。この事実をなぜしっかり見つめて、もう一度、国造りをしなかったのだろうか―と思う。

丁寧に「今、日本の国は勝った、勝ったと言っているが、勝ったのではないんだ。ぎりぎりだったんだ。弾はほとんど使い果たした。兵士も本当にたくさん亡くなった。中隊長、大隊長クラスも亡くなった。このまま戦争が続けられないから、ここでやめたんだ」と。海軍は日本海海戦で大勝利を得たが、苦しいのは同じだった。

「われわれは、もういっぺん初心に戻り、世界の列強になるなどと言わず、貿易を中心にして、国力を養っていくような小国日本の方がいいのではないか」ということを言うべきだったと思う。

そういうことを言っていた人は石橋湛山(注3)や夏目漱石など実はたくさんいた。「この国は決して、うぬぼれ、のぼせて、いい調子になっている国じゃないんだ」と。「もっと穏やかで落ち着いて、しっかり考え直して、国を富まして貿易をどんどん盛んにして国力をつけなければだめなんだ」ということを国も国民ももっと言えばよかった。

多分、政府は本当のことを国民に言えなかったのだと思う。当時の指導者、山県有朋も伊藤博文も大山巌も、決してばかではなかったと思う。やっぱり世界の情勢は知っていた。

ところが、あれだけ税金を多く徴収して国民に苦難を強いたのだから「勝った、勝った」と言わざるを得ず、国家は今こういう状態なんだと言えなかったのだと思う。そして、国民をおだてて、われわれは世界に冠たる大国民なんだ、世界最強の軍隊なんだ―と持ち上げ、そのまま(昭和の戦争へ)突き進んでいってしまった。

《(編注)日露戦争は、日本とロシアが、朝鮮(大韓帝国)と満州(中国東北部)の支配権を巡り戦った戦争。政府の予想を上回る消耗戦となり、戦費は国の一般会計規模の7、8倍に当たる20億円近く、動員された兵員は100万人近くと、国力の限度を超えた。戦死・戦傷死者は5万人以上という。巨額の軍事費は、増税と内外の国債発行で捻出された

さらに(国は)本当の戦史を消し、全部、神話的な物語、美談にした。例えば、山ほど人が死んだという旅順の白兵戦。あれは、まず砲撃をしてから突撃しなければならないのに、とにかく歩兵が突撃した。無謀なものだが、さも美談のようにして「白兵戦こそわが陸軍の華である」と語られた。日露戦争の記録というのは、かっこうだけつけた別の戦史が作られてしまった。

ただ、陸軍も海軍も、うそばかり残していたのではしょうがないだろうと、本当の記録は残してはいる。しかし本当の記録は3部ほどしか作っていない。海軍の場合、1部は海軍軍令部、1部は海軍大学校に置き、残りは宮城(皇居)に置いた。その宮城の中の1部が今残ったという。陸軍は終戦の時全部焼いてしまった。福島県内の図書館に写しが残っているが、それも全部ではない(編注・県立図書館「佐藤文庫」所蔵の「明治三十七八年 日露戦史」全10巻=手稿)。

こういう具合に明治政府の指導者たちは「朝敵」を差別し、自分たちだけが偉くなって、しかも歴史を隠してしまった。これが明治維新150年の実相だ。150年の中には、国家を滅ぼす要因が山ほどあった。歴史を正しく見ないと、これからも間違う。逆に歴史をきちんと丁寧に読めば、教訓になることが必ず見つかると思う。

※「戊辰戦争」「明治維新」を新たな視点で問い直す長期大型連載「維新再考」は、引き続き福島民友新聞で毎週月曜日に掲載します。どうぞお読み下さい。

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はんどう・かずとし 1930(昭和5)年、東京都生まれ。旧制長岡中、東大卒。文芸春秋で「週刊文春」「文芸春秋」編集長などを経て作家に。毎日出版文化賞特別賞を受賞した「昭和史1926―1945」「昭和史 戦後編」など著作多数。幕末、明治維新については「幕末史」などがある。86歳。

(注1)革新外務官僚 外務省革新派ともいわれる戦前、戦中の同省官僚の一グループ。親英米路線をとる同省に対し「皇道外交」を掲げ南進論などを主張したとされる。

(注2)鈴木貫太郎(すずきかんたろう)(1868~1948年) 海軍軍人で政治家。1945(昭和20)年4月、内閣総理大臣に就任(同年8月退任)し「天皇の聖断を仰ぐという超法規的な手段でポツダム宣言の受諾を決め、昭和の戦争を終結させた」(半藤一利、保阪正康著「賊軍の昭和史」より)。徳川譜代である関宿藩(現千葉県野田市)の藩士の長男。半藤さんは、鈴木ら「朝敵」とされた藩の出身者、または、その子弟を「賊軍派」と呼び、薩摩閥が主流だった海軍、薩長閥の影響を残していた政府の中で、戦争を終結に導く役割を担ったとしている。

(注3)石橋湛山(いしばしたんざん)(1884~1973年) ジャーナリスト、政治家、教育者。1920年代から東洋経済新報で主幹などとして、日本の植民地政策を批判し加工貿易立国論を唱えた。半藤さんが述べた日露戦争後の主張は、湛山や三浦銕太郎ら東洋経済新報歴代主幹の主張を指し、海外での権益拡大を目指す「大日本主義」に対し、国内を重視し通商国家としての繁栄を目指す「小日本主義」といわれる。