【維新再考・識者に聞く】中村 彰彦さん(3)  忠誠を貫き悲痛の決断

 

「逆賊を滅ぼした戊辰戦争」との歴史観を否定する作家の中村彰彦 さん。第3回は、会津藩主・松平容保が新政府軍から最も憎まれた理由である「京都守護職の就任」の経緯を語る。

◆滅びの道…京都守護職

松平容保が幕末史に登場するのは大老・井伊直弼が暗殺された1860(安政7)年の「桜田門外の変」(注1)だ。容保は水戸藩を討つ愚かさを説き「ますます天下が乱れる」と意見した。徳川14代将軍・家茂も賛同し、徳川御三家の内紛は免れた。これで容保の聡明さが知れ渡った。

尊皇攘夷(じょうい)派は桜田門外の変以降、さらに暴れ回る。京では、幕府への反発感情が強い公家に尊皇攘夷を吹き込み、幕府要人らを「天誅(てんちゅう)」と称して襲うテロを繰り広げた。ある者は街角で殺され、ある者は首がさらされた。血なまぐさい空気が京を覆い尽くした。

江戸でも1862(文久2)年に老中・安藤信正(磐城平藩主)が水戸浪士らに襲われる「坂下門外の変」(注2)が起きている。

大老暗殺や老中襲撃が起きる前代未聞の事態。大藩の藩主を、老中よりも強権の特別職にしないと幕府はもたない。そこで将軍・家茂を支える「将軍後見職」、幕府の政策を統括する「政事総裁職」、京の警察機能の最高責任者となる「京都守護職」(注3)を置いた。

京都守護職を務めた会津藩が本陣を置いていた京都・黒谷の金戒光明寺。高麗門には「京都守護職本陣 旧跡」との看板が掲げられ、境内には京で亡くなった藩士らが眠る会津墓地が大切に守られている

 

62年7月、将軍後見職に一橋慶喜(後の徳川15代将軍)、政事総裁職に福井藩の前藩主・松平春嶽が就き、62年閏(うるう)8月になって京都守護職に容保が就いた。容保の就任が遅いのは、尊皇攘夷派に憎まれ、財政難に陥る役目の就任について藩内で意見が割れたからだ。

 《(編注)緊急事態には井伊家が京都守護職に就任することになっていたが、桜田門外の変で衰退していた。次は福井藩だが松平春嶽が政事総裁職にあった。そこで徳川に至誠を貫く松平容保に白羽の矢が立ち、京都守護職が任命された。同時期、薩摩藩が京都守護職に名乗りを上げたが、幕府は外様に京都を牛耳られてはならないと判断した

就任を固辞する容保を説得したのは春嶽だ。病気と地理的な遠さを理由に断る容保に対し、泣き落とし戦術で何度も手紙を出した。理由は容保が辞退すれば、自らが京都守護職に回される可能性が高いからだろう。

 《(編注)春嶽の手紙では「ひとまず快諾されれば、あとは春嶽に任せてほしい」や「公武合体の行く末は容保の返事で決まる。泣いてでもお願いしたい気持ちだ」などとつづっている

春嶽はさらに、会津藩の憲法ともいえる会津松平家初代・保科正之が定めた会津藩家訓(かきん)を引き合いに出す。そして「保科正之公がいたら必ず引き受けただろう」との殺し文句も吐く。家訓には「他藩以上に徳川に忠誠を尽くさなければならない」とあり、容保は受けざるを得なかった。

春嶽の説得工作を知った国家老の西郷頼母と田中土佐は急ぎ江戸に上った。そして容保に対し「この難局に当たるのは、まるで薪(たきぎ)を背負って火を救おうとするようなもの。労多くして功はない」といさめ、とにかく断るべきと主張した。

容保は江戸家老の横山主税らを前に「将軍の命令がしきりにあり、もはや辞する言葉はない。徳川家と盛衰存亡を共にすべしとの家訓もある。決心するよりほかはない」(大意)と決意を語った。

家老たちは容保の悲痛極まる言葉に胸打たれ、「君臣もろとも京を死に場所にしましょう」と覚悟した。このときの容保は家臣とともに涙するほど純粋な青年だった。家訓の精神を守る藩主と家臣の結束力の強さが、結果として滅びの道へと進んでしまう。

容保は62年12月から家臣千人を率いて上京し治安維持に尽くし、尊皇攘夷派の憎しみを一身に受けた。孝明天皇が崩御すると正邪が逆転し、やがて会津藩は戊辰戦争で敗れてしまう。一方、京都守護職を押し付けた春嶽は、政事総裁職を1年足らずで辞任。戊辰戦争では会津攻めに兵を出している。のちに新政府の要職も歴任した。現代でも「幕末の四賢侯」ともてはやされているのである。

 ※「戊辰戦争」「明治維新」を新たな視点で問い直す長期大型連載「維新再考」は、引き続き福島民友新聞で毎週月曜日に掲載します。どうぞお読み下さい。

 ※「識者に聞く」第1部で掲載された中村彰彦さんの記事は、福島民友新聞社が発行した保存版で、お読みいただけます。

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なかむら・あきひこ 1949(昭和24)年生まれ。栃木県栃木市出身。宇都宮高、東北大文学部卒。文芸春秋勤務を経て91年から文筆活動に専念。主に幕末・維新期の群像を描いた作品を執筆している。94年の第111回直木賞を受賞した「二つの山河」など会津に関する著作が多い。68歳。

(注1)桜田門外の変(さくらだもんがいのへん) 1860(安政7)年3月3日、江戸城桜田門外で尊皇攘夷(じょうい)派の水戸浪士ら18人が登城途中の大老・井伊直弼(彦根藩主)を暗殺した事件。安政五カ国条約締結など強権政治への批判、反対勢力を弾圧した安政の大獄の報復が起因になった。これに対し幕府は尾張、紀州両藩に水戸藩を征伐させようとした。

(注2)坂下門外の変(さかしたもんがいのへん) 1862(文久2)年1月15日、江戸城坂下門外で尊攘派の水戸浪士らが老中・安藤信正を襲撃し負傷させた事件。信正が公武合体を推進し、幕府の権威回復のため和宮降嫁(こうか)を実現させたことが尊攘派の憤激を招いた。この後、信正は老中を罷免された。

(注3)京都守護職(きょうとしゅごしょく) 1862年、尊攘運動の高揚と、朝廷との摩擦を憂慮した幕府が設置した。京都所司代や大坂城代、近隣の各奉行、近国の大名を指揮する権限を持つ。初代が松平容保で、64年の第1次長州征討のころ松平春嶽が任命されたが、間もなく容保が再任。67年の王政復古で廃止。会津藩は藩兵千人を常駐させ、守護職預かりとして新選組も配下に置いた。