【維新再考・識者に聞く】中村 彰彦さん(5) 謎多い「白虎隊の悲劇」

会津藩は国防の第一線で幕府を支えてきたという作家の中村彰彦さん。第5回は、戊辰戦争の悲劇とされる白虎隊の実像に迫りながら、歴史観のねじれ現象を語る。

◆愛国の鑑として利用

少年藩士で編成された白虎隊は飯盛山(会津若松市)で自刃したことで知られる。落城を誤認し、けなげな最期を遂げたお涙頂戴のイメージで喧伝(けんでん)された。これは官製史観により国威発揚に利用されたためだ。

まずは成立背景から。会津藩は幕末、洋式への軍制改革が遅れていた。薩摩、長州両藩は近代的軍隊なのに、会津兵は刀槍(とうそう)で斬り込みをかけるばかり。兵力差は歴然だった。実際、戊辰戦争の端緒となった1868(慶応4)年1月の鳥羽伏見の戦いでは、旧幕府軍の中で最多の140人が戦死した。

会津藩は同年3月、新政府軍の進攻を予期し、幕府と同じフランス式の軍制改革を行い、年齢別の4隊を編成した。方位をつかさどる四神の名を冠して白虎隊(16、17歳)、朱雀隊(18~35歳)、青龍隊(36~49歳)、玄武隊(50歳以上)と名付け、身分で士中、寄合、足軽に分けた。

《(編注)4隊の任務は、朱雀隊が第一線で戦う実動部隊、青龍隊が藩境の守備隊、玄武隊と白虎隊が予備隊の位置付け。ほかに砲兵隊や遊撃隊などもあって正規軍は約3000人。募集した農民・町民の兵約2700人と猟師隊や力士隊、修験隊なども加え、会津藩領内とその周辺で戦った同藩の全兵力は7000人超だった

鳥羽伏見の戦いの後、上野での戦いを経て東進した新政府軍は母成峠(現郡山市・猪苗代町)を越え、8月22日に猪苗代に侵入した。これに対し会津側は、白虎隊の士中二番隊が戸ノ口原に出撃した。この戦闘で、よく語られるのが「隊長の日向内記(ひなたないき)が食料調達を理由に行方不明になり、残された隊士の独断で開戦に至った」ということだ。果たして内記は敵前逃亡の卑劣漢だったのか。事実は違うようだ。

喜多方市の冨田国衛さん(73)の著書「会津戊辰戦争 戸ノ口原の戦い 日向内記と白虎隊の真相」がこの問題に詳しい。要約すると「食料調達は後の創作。内記は鶴ケ城へと戻って白虎士中一、二番隊の隊士と籠城戦を戦った。青森県・下北半島などで斗南藩の再興後、窮乏する移住者に会津から米や金を送る重要な救援の役目を果たした」という。

かなり衝撃的な内容だが、内記をひきょう者と見なすのは誤りだった。それどころか斗南移住者を飢餓地獄から救うべく懸命に働いていた陰の功労者であった。「食料調達」の話は後世の創作の可能性が高い。冨田さんの新説で内記の汚名がそそがれたといえる。

さて、話は、ねじれ現象に移る。明治以降、自刃した少年藩士の死を哀れみ、飯盛山への参拝者が増えていった。白虎隊は忠君愛国の鑑(かがみ)とされ、教科書に登場し、文部省唱歌として子どもに教えられた。教科書の記述を紹介していく。

1920(大正9)年刊行の「尋常小学国史」では「白虎隊は花々しく戦って多く討ち死にしたが、生き残った16人が飯盛山に登り、ひざまずいて城を拝し、互いに刺し違えて死んだ」(大意)とある。1943(昭和18)年刊行の「初等科国史」では人数が19人になり、「けなげな最期をとげた」と加筆される。これは太平洋戦争まで、白虎隊のような死の選択こそ日本人のあるべき姿とされたためだ。

官製史観、順逆史観では、会津藩は賊徒で、白虎隊は「あっぱれな少年たち」となる。本来、白虎隊と会津藩は同じなのに、一方を評価し、他方を否定することは成立しない。これがねじれ現象であり、薩長の歴史観のゆがみである。

※「戊辰戦争」「明治維新」を新たな視点で問い直す長期大型連載「維新再考」は、引き続き福島民友新聞で毎週月曜日に掲載します。どうぞお読み下さい。

※「識者に聞く」第1部で掲載された中村彰彦さんの記事は、福島民友新聞社が発行した保存版で、お読みいただけます。

◇              ◇ 

 なかむら・あきひこ 1949(昭和24)年生まれ。栃木県栃木市出身。宇都宮高、東北大文学部卒。文芸春秋勤務を経て91年から文筆活動に専念。主に幕末・維新期の群像を描いた作品を執筆している。94年の第111回直木賞を受賞した「二つの山河」など会津に関する著作が多い。68歳。

 【補助線】 ≫≫≫ 落城誤認、後世の創作?

白虎隊は16、17歳の約300人(人数は諸説あり)で編成され、士中一、二番隊と寄合一、二番隊、足軽隊の5隊に分けられる。白虎隊全員が自刃したと誤解されがちだが、飯盛山で集団自刃におよんだのは士中二番隊の一部で、約1カ月の籠城戦を戦い抜いた隊士もいる。白虎隊全体の約8割が生き延びた。

士中二番隊約40人は1868年8月22日、前藩主・松平容保(かたもり)(すでに家督を養子の喜徳(のぶのり)に譲っている)が城下の滝沢本陣まで出向いた際に同行。戦況急変の応援として出動することになり、猪苗代湖近くの戸ノ口原で複数グループに分かれて戦い、戦況悪化で退却。翌23日に飯盛山に逃れた隊士が集団自刃し、うち飯沼貞吉のみが蘇生した。

飯盛山の自刃者は19人(16人など諸説あり)とされるが、戸ノ口原などでの戦死者が含まれるとの見方がある。自刃の理由は、飯沼貞吉の一部自筆の資料によると、玉砕か帰城かの激論を交わし「潔く自刃して武士の本分を明らかにしよう」と決断したという。つまり落城誤認は創作の可能性がある。ただ、人々の証言に食い違いが多く、真相は定かでない。(編集局)