【維新再考・識者に聞く】中村 彰彦さん(7)  逆風耐え明治を生きた

「逆賊を滅ぼした戊辰戦争」との歴史観を否定し、会津藩は賊軍ではないと主張する作家の中村彰彦さん。中村さんが語る「再考」の最終回は、敗北と亡国をバネに明治を生きた旧会津藩士を見ていく。

◆会津藩の気風忘れず

明治時代の旧会津藩士は賊軍という屈辱を抱き続けた。そんななか、1873(明治6)年に西郷隆盛が下野すると、薩摩出身の巡査や軍人も一斉に帰郷した。新政府は東京の治安維持のため、74年に旧会津藩士を東京警視庁に大量に採用した。旧会津藩士のまとめ役だった旧会津藩家老の佐川官兵衛以下の約300人だ。

77年に西南戦争が起きる。戊辰戦争の雪辱を果たす機会が巡ってきたのだ。旧会津藩士は、旧会津藩家老の山川浩のように陸軍軍人として出征するよりも、巡査として出動した例が多い。警視隊の総人員約1万3000人の1割が旧会津藩士やその子弟だった。敵陣地に斬り込む際に「戊辰の復讐(ふくしゅう)、戊辰の復讐」と叫んだ旧会津藩士もいたという。

「朝敵持ち回り」という言葉がある。かつて「禁門の変」を起こした賊軍の長州藩は戊辰戦争で官軍になった。官軍だった会津藩は戊辰戦争で賊軍と名指しされ、西南戦争では再び官軍として賊徒を討伐した。このような運命の変転を指している。そして幕末という時代は、西南戦争の終結によってやっと幕を閉じた。

士族の反乱のように、社会が不安定になると破壊活動に走る人々がいる。旧会津藩士の場合は76年に東京で起きた「思案橋事件」だ。秀才といわれた永岡久茂(注1)が中心となり反乱を企てた。旧会津藩士が賊徒呼ばわりされるなか、ついに怒りにまかせて国家転覆運動に走った。

戊辰戦争の勝者が藩閥政治を行い、それがいつしか軍閥に代わり、日本を亡国に導いたことは周知の事実。江戸幕府が260年以上も平和と不戦の時代を築いたのに対し、耐久力に欠けた明治以降の体制は対外戦争を繰り返して80年弱しか持たなかった。

それでも江戸時代の幕藩体制を批判し、明治国家を賛美する人がいる。これは「正義の軍隊が賊軍を討った」という官製史観、順逆史観に基づく。もしもの話になるが、戊辰戦争で旧幕府軍が勝ったとしても、近代国家が成立したのではないかと考えている。

明治政府の基本になったとされる「船中八策」に大政奉還の構想が盛り込まれている。だが実は大政奉還を最初に考えたのは幕府側だ。しかも会津藩には、船中八策よりさらに優れ、具体性に富む「管見」を説いた山本覚馬(注2)がいた。

つまり旧幕府側には大政奉還論や、船中八策を超える構想があった。これに加え、佐幕派こそ開国和親派であった事実を思い合わせれば、旧幕府側が近代国家を成立させたとしてもおかしくはない。

禁門の変以降、戊辰戦争終結までの会津藩の戦死者は約3000人に上る。旧幕府軍と奥羽越列藩同盟の戦死者は約4600人超で、会津藩が最大の犠牲を出したことになる。しかし、これゆえに会津藩が美化されて語られるわけではない。

会津藩には逆風に向かって進む気骨あふれた人が多くいた。それに教養や規範をきちんと身に付け、和歌や漢詩に思いを込められる雅(みやび)やかな心を備えていた。だからこそ戊辰戦争から150年を迎えた今もなお多くの人々の心を打つのだ。

※「戊辰戦争」「明治維新」を新たな視点で問い直す長期大型連載「維新再考」は、引き続き福島民友新聞で毎週月曜日に掲載します。どうぞお読み下さい。

※「識者に聞く」第1部で掲載された中村彰彦さんの記事は、福島民友新聞社が発行した保存版で、お読みいただけます。

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なかむら・あきひこ 1949(昭和24)年生まれ。栃木県栃木市出身。宇都宮高、東北大文学部卒。文芸春秋勤務を経て91年から文筆活動に専念。主に幕末・維新期の群像を描いた作品を執筆している。94年の第111回直木賞を受賞した「二つの山河」など会津に関する著作が多い。68歳。

(注1)永岡久茂(1840~77年)会津藩士。幕府の昌平坂学問所に留学する秀才。戊辰戦争では奥羽越列藩同盟の成立に貢献。再興した斗南藩で少参事を務める。後に東京で評論新聞社を設立し言論で明治政府を弾劾。思案橋事件の負傷がもとで77年に獄死した。

(注2)山本覚馬(1828~92年)会津藩士で山本八重の兄。江戸で蘭書や洋式砲術を研究。鳥羽伏見の戦いで薩摩藩に幽閉される中で「山本覚馬建白(通称、管見)」を口述筆記し、三権分立の政体などを説く。京都府顧問や府議会議員(初代議長)、京都商工会議所会頭も務めた。

【補助線】 ≫≫≫ 新政府への反乱未遂に

明治の士族は社会変革や生活困窮で新政府に不満を持った。この情勢下で1876(明治9)年10月29日夜、東京・日本橋付近で起きた「思案橋事件」は、旧会津藩士の永岡久茂を首謀とする未遂の士族反乱である。

永岡ら旧会津藩士など十数人で千葉県庁を襲い、佐倉鎮台の兵を利用し挙兵する計画だった。しかし警察と遭遇して格闘の末に捕縛され未遂となった。永岡と親交のあった旧長州藩士の前原一誠が前日起こした「萩の乱」に呼応した動きだった。
負傷した永岡は77年に獄死し、ほかも斬罪(ざんざい)や終身刑、懲役刑となった。

逃走者のうち旧会津藩士の中根米七のみ行方をくらませたが、78年に喜多方で自決した。賊軍とされた旧会津藩士が新政府に正面切って戦いを挑もうとした唯一の事件とされる。(編集局)
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