【維新再考・識者に聞く】磯田 道史さん(上・第二部)田中玄宰が本気の改革

会津若松市内に復元された會津藩校日新館

 

 

◆他藩を見て学び発展 

だいたい1800年ごろ、明治維新の70年くらい前から「普通の藩」と「普通でない藩」に分かれた。「普通でない藩」、学術的に言うと雄藩の薩摩、長州、会津などは幕末維新で活躍した。

「普通の藩」は、江戸時代の中後期、あまり改革をせず変われなかった藩。一方、「普通でない藩」は財政的に追い詰められ改革に踏み切った藩だった。

「普通でない藩」の変わる準備は1750年ごろから始まった。やり方はほぼ同じで、まず藩校をつくった。侍の子を皆学校に入れ、厳しく成績でチェックし、優秀な子を役職に就ける制度を始めた。

同じころには、熊本藩などで、農民に主君をあがめさせる教育も始まった。それが「殿様祭り」。殿様の誕生日に、国中の農村で誕生を祝う会を開き、酒や赤飯で楽しんだ。これをまねる藩がだんだん増えていった。

熊本藩では、秀才を学校で育て役人にし、経済重視の行政改革をやった(1755年、藩校時習館開校)。これが成功した。大坂の熊本藩蔵屋敷は米俵であふれた。すると、苦しかった米沢藩がこれに倣い、藩主上杉治憲(鷹山)の時、興譲館をつくった(1776年)。それを見て会津藩も熊本型改革を開始(1803年、日新館開校)。

会津藩と同じ時期に、熊本に倣ったのが長州、佐賀両藩。熊本の隣、薩摩藩も強い影響を受けた。

この1801年ごろ、出石(兵庫県)藩主の密命で西国の藩を回って各藩の通信簿を付けて歩いた桜井東門「西遊視聴記」によると「西国は肥後(熊本)、長州が第一の政治をやっている。政治によって昔より良い街になっていると思われる」とある。

熊本藩は、行政能力の高い者1人を「大奉行」とし決定権を持たせ、下に6人の「奉行」を置く政治改革をした。江戸時代は権力を分散させるため奉行を2人置き交代でやらせていたが、それでは仕事が先送りされ、何も決められない。熊本藩はそれに気付いた。

長州藩でも藩校で行政を担う人材づくりを進め、藩校明倫館では投書箱を置き政治への意見を書かせた。政治的な意見が言えないといっぱしの武士と認められず、吉田松陰のような思想家が出てくるのは当然だった。対照的に、会津藩の日新館は上意下達。服装で階級が分かるような厳格な縦型社会の藩だった。

また、桜井は、長州では農民が「殿様がありがたい」と泣いていたと記録。長州は、困窮者扶助の福祉政策の見返りに、藩主の誕生日に「殿様祭り」を行い、領民に忠君愛国を教育。それで幕府と戦争になった時、領民は高い戦意と新式銃で防衛戦に参加。これが長州征伐で幕府・会津藩が長州を滅ぼせなかった理由だった。

この富国強兵のやり方は、維新後、大日本帝国に受け継がれ、昭和の敗戦につながる。

薩摩藩は、戦国の風が残り、識字率は低いが、戦争や政治に強い。薩摩では藩士の郷中(ごじゅう)教育がある。少年が集まって学校をつくり、そこでは先輩が後輩に「こういう場合、どうするか」というモデルケースを何回も尋ね、答えさせた。例えば「親の敵と主君の敵、どちらから討つべきか」。その模範解答は古風で実利的なもの。「行き当たり次第に」だ。文字で教育し、きっちりきれいな人間を育てた会津藩の倫理的な教育に対し、薩摩藩は戦国の実利的な教育をしていた。

では会津藩は、なぜ幕末に活躍できたのか。家老田中玄宰(はるなか)(1748~1808年)の本気の改革が、会津を普通の藩から強い藩にした。

玄宰は、米沢藩が導入し成功した政治モデル、熊本藩の改革に倣った。熊本藩に頼み儒学者の古屋重次郎(昔陽)を顧問に呼び、徂徠学(そらいがく)(注1)に基づく実利的な経済政策(注2)を行った。これには最初「わが藩は保科正之公以来、朱子学(注3)だ」と藩主らも反対したが、玄宰は政治・教育改革を強行した。当時の会津藩士は髪形まで熊本藩をまねた。

そして日新館では人材を育て、幕府直轄の教育機関、昌平黌(しょうへいこう)の権威の高い居寮生代表(寮長)を多く出した。また、追鳥狩(おいとりがり)(当時の軍事訓練)、甲冑(かっちゅう)の藩庫管理(藩士が個人所蔵している甲冑が売られたり壊れたりしないよう藩で一括管理し、専門の職人が修繕をした)を行い、会津藩を戦える藩にし、実際、蝦夷(えぞ)・樺太(からふと)警備に出兵した。

会津の藩風は碁盤の目を引くと言われる。上の者が下の者の身分相応の徳目を設定し、徳目達成に走らせるやり方だ。これで会津藩は優れた人材をつくったが、権威や型や伝統を過度に重んじる弊害も生じた。

日新館教育は立派だ。しかし、軍事的に敗れた理由も存在する。田中玄宰が、他藩を見て自藩の欠点を直し発展につなげたように、福島県の政治や教育には、時代の変化に応じ、型にこだわらない発想が必要だ。

(注1)徂徠学(そらいがく) 儒学者の荻生徂徠(おぎゅう)が唱えた儒学思想。道徳を厳格に説く朱子学に対し、儒教が求める政治の道に道徳は関わらないなどと主張した。
(注2)実利的な経済政策 1787(天明7)年、田中玄宰(はるなか)の改革案提出から始まった会津の藩政改革では、財政再建策の柱として殖産興業に力を入れた。領外から優れた技術を導入し、漆器、銅細工、キセル、ロウソクなどの手工業産品、麻、紅花、薬用ニンジンなどの農産物を領内で生産。主に江戸で販売した。この時期移入され発展し会津の伝統産業となったものは多い。
(注3)朱子学 中国、南宋の学者、朱熹(しゅき)がつくりあげた儒教。人間の本性は理で善だが、聖と凡の別があり、敬を忘れず行を慎んで、事物の理を窮めて知を磨き、人格、学問を完成する実践道徳を唱えた。日本では徳川幕府が官学として保護した。

いそだ・みちふみ 1970(昭和45)年、岡山市生まれ。慶応義塾大大学院文学研究科博士課程修了。専攻は日本近世社会経済史、歴史社会学、日本古文書学。国際日本文化研究センター准教授。著書は「武士の家計簿」「殿様の通信簿」「天災から日本史を読みなおす」「『司馬遼太郎』で学ぶ日本史」など多数。

 ※「戊辰戦争」「明治維新」を新たな視点で問い直す長期大型連載「維新再考」は、引き続き福島民友新聞で毎週月曜日に掲載します。どうぞお読み下さい。