【維新再考・識者に聞く】磯田 道史さん(下) 困難が人間を強くする

歴史学者、磯田道史さんの一家は、先祖の代から本県と、さまざまなゆかりがある。医学博士、野口英世の修業時代にも、大きな関わりを持った。そうしたエピソードを紹介しながら、今にも通じる幕末明治の「人づくり」について語る。

◆英世育てた明治の風

―磯田さんの祖先は戊辰戦争の時、会津で戦って亡くなった。数年前、その墓参で会津若松市を訪れている。会津の印象は。

会津はいつ行ってもいい。文化がちゃんと残っている。もちろん親戚もいる。妻が4分の1福島なので。棚倉藩の藩士から日本画家になった勝田蕉琴(しょうきん)(注1)が、妻の曽祖父です。私の家は岡山藩の分家鴨方藩に仕え、同藩出身の画家・浦上玉堂(ぎょくどう)家(注2)と遠縁でした。玉堂も会津が好きで訪れています。蕉琴の「琴」も、浦上春琴・秋琴という、浦上玉堂の子の名からとったようです。日本画で、福島と僕の家族はつながっています。

福島でいいのは、あまり知られていないが、日本画などの洗練された文化がある。能でも日本画でも和歌、書でも、会津藩の文化はすごい。それにもっと着目していい。私の妻の曽祖父の勝田蕉琴の絵も、たくさん県立美術館に所蔵されています。
もうそろそろ「福島イコール被災地」ではなくて、「江戸の美の世界をけん引した福島」などと、福島本来の伝統や魅力を宣伝するのも必要です。

 ―確かに文化発信も復興の大きな手段の一つです。

私の家族は、もう1点で福島と関係する。それは歯医者の関係で野口英世と交わる。幕末期、私の家の、当主のおいっ子にすごい秀才が生まれた。高山紀斎(きさい)(1851~1933年)という人。

実は(幕末に)アメリカ海兵隊と(日本で)最初に交戦したのが岡山藩です。神戸で軍事衝突した。岡山藩はアメリカに歯が立たなかった。その姿を見て、藩は高山をアメリカに留学させた。軍人や政治家になれといってアメリカにやったのでしょう。

ところが、高山は、甘い物が大好き。歯を痛めて、それで歯医者になる。日本で最初の西洋歯科医になった。そんな人を殺す軍事技術よりは、歯で苦しんでいる人を助けろとアメリカ人に言われたので。国に帰って西洋式の歯科医学を伝え、明治天皇と大正天皇の歯医者になった。高山は大正天皇の乳歯も抜いたらしい。

それで、高山歯科医学院(注3)というのを創った。

―日本の近代歯科医学の礎を築いたわけですね。

で、その時、学校を支えたのが元岡山藩士と元会津藩士だった。そして、その学校に入ってきたのが野口英世(注4)だった。

野口はお金がないので、この歯科医学校の人たちが世話をしたのだが、ここで僕がすごいなと思うのは、血脇守之助(注5)という男。千葉の我孫子市の宿屋の出身なのだが、うちの親戚の、いささか偉そうな高山とは違って、親切で世話焼きだった。

野口英世は、必ずしも品行方正な人ではなかった。ところが、才能や頭脳が追随を許さないほど素晴らしい。これを、まったく嫉妬することなく、日本の宝だと思い、血脇たち高山歯科医学院にいた人たちが「俺の給料をあいつにくれてやってくれ」とまで言って野口を養うわけです。それで、文無しの野口に、いろいろな教育を授けたり便宜を図った。血脇たちが世話をして「野口英世」が生まれた。

ちなみに、高山歯科医学院を創った時に、やって来たのが元会津藩の人たち。元会津藩の人たちが一緒になって高山歯科医学院を創るんです。で、この学校は会津地方に診療所を出している。それが、野口が学校へ来たきっかけだったと思います。
だから、私の家が、食い詰めた貧乏侍だったがために、野口英世を世に出すお手伝いができた。うれしいことです。

でも、高山紀斎よりも、高山の周りにいた血脇さんとかが偉い。野口の才能に気付いて一生懸命やった。江戸時代から明治にかけて、先生と言われる人たちがすごく偉かったことは忘れてはなりません。先生と呼ばれる人たちが立派な人である社会は、助かる。第一、他人の才能の素晴らしさに嫉妬しない。第二、素晴らしい才能を見たら、皆の財産だと思って助ける。
この二つがなされていたのが、明治という時代を発展させた大きな力だと思います。

会津藩の秋月悌次郎も、熊本五高(旧制熊本第五高等学校)へ、講師として行って「神の如(ごと)し」と、同僚だったラフカディオ・ハーンに言われた。幕末明治の先生には、そういう清冽(せいれつ)な精神を持っていた人が結構いました。

 ―秋月は戊辰戦争後、藩主の助命嘆願で長州藩士奥平謙輔を訪ねた時、藩士の子弟2人(山川健次郎、小川亮)を書生として教育してもらうよう頼み実現した。

それこそ、人づくりです。人間の頭脳、才能は、皆の財産だと考える視点を会津藩はじめ幕末明治の日本が持っていたのは、非常に大事なことです。特に、秋月などは、自分も昌平黌(しょうへいこう)に留学させてもらって世話になっているわけですから、人の世話もします。

今も、若い時に東日本大震災や、社会の理不尽を感じた子どもは、何かを思っているはずです。震災の頃に多感な青春期を過ごした人が、今、大都会の大学などに進学・卒業・就職しようとしている。中には非常に才能のある人、地元をなんとかしようと思いながら暮らしている人もいると思う。

でも、そのまま何にもしなかったら、東京などの大都会に溶け込んでしまうかもしれない。そういう若者が地元に支援され、また地元に恩返しの貢献もしやすい仕組みを作ってみたらどうでしょうか。

人間は困難で鍛えられる。「艱難汝(かんなんなんじ)を玉にす」という言葉がある。野口英世がそうです。手を大やけどして、あの野口になった。艱難に遭うと、不思議なことに人間は硬い玉になる。ある時期、艱難を受けたであろう福島の青年は、日本の宝でしょう。きっと、いろんな志や才能がある。これは全力で支援する仕組みが必要です。

私も(作曲家の)三枝成彰さんに協力して震災孤児の支援を始めました。将来、青年が地元に恩返しをしてくれればいいが、しなくてもいい。自由です。野口英世は「世界の野口」。地元に帰って貢献しなくても、福島の人は彼にお金を出して育てました。そういうところも、明治という時代は潔いものでした。

(注1)勝田蕉琴(1879~1963年)棚倉町出身の日本画家。東京美術学校卒業後、インド留学を経て帝展などで活躍した。

(注2)浦上玉堂家 鴨方藩士(後に脱藩)の玉堂(1745~1820年)と長男春琴(1779~1846年)、次男秋琴(1785~1871年)はともに文人画家。秋琴は、父が土津神社の神楽を再興した功績によって会津藩士に。戊辰戦争後、備前藩士らと岡山へ帰った。

(注3)高山歯科医学院 1890年、東京で創設された日本初の歯科医学校。東京歯科大の前身。

(注4)野口英世(1876~1928年)猪苗代町出身の細菌学者。医術開業試験合格を目指す書生だった野口は1896年、高山歯科医学院で、寄宿舎に泊まり込み雑用をする「学僕」になった。

(注5)血脇守之助(1870~1947年)現千葉県我孫子市出身の歯科医師。東京歯科大の創立に参画。日本歯科医学会長などを務めた。

 いそだ・みちふみ 1970(昭和45)年、岡山市生まれ。慶応義塾大大学院文学研究科博士課程修了。専攻は日本近世社会経済史、歴史社会学、日本古文書学。国際日本文化研究センター准教授。著書は「武士の家計簿」「殿様の通信簿」「天災から日本史を読みなおす」「『司馬遼太郎』で学ぶ日本史」など多数。

 ※「戊辰戦争」「明治維新」を新たな視点で問い直す長期大型連載「維新再考」は、引き続き福島民友新聞で毎週月曜日に掲載します。どうぞお読み下さい。