【維新再考・識者に聞く】森田 健司さん(2) 「担がれた天皇」お見通し

◆高度な謎で薩長批判

江戸時代の庶民の視点から幕末、戊辰戦争を検証している大阪学院大教授の森田健司さん。第2回も、民の声を「判(はん)じ物(もの)」で表現した諷刺(ふうし)錦絵を取り上げ、謎解きから当時の「民意」に迫る。

戊辰戦争の開始以来、新政府軍が圧倒的な力を持ち続けたのは、「錦の御旗」に表されるように天皇を味方に引き入れたからだ。今回は、新政府軍が天皇を抱え込んだ点に焦点を当て、一枚の諷刺錦絵を紹介したい。

(森田健司さん所蔵)

 (森田健司さん所蔵)
江戸の庶民が新政府軍を批判的に 的に見ていたことが分かる錦絵「当世三筋のたのしみ」。
右側が旧幕府、左側が新政府軍を示す。着物に絵ろうそくが描かれた男が会津藩

 

「当世三筋(みすじ)のたのしみ」という題名の錦絵で、改印や版元、絵師名がない非合法出版物だ。「三筋」とは三味線のことで、家の中で女性の師匠が三味線を教え、玄関前に来客がいる構図である。

制作時期は江戸城が無血開城された1868(慶応4)年4月11日より前で、戊辰戦争の勝敗はまだ不明瞭だ。

さて、謎解きを始める。

玄関の上の表札に「歌沢てん」とあり、女性の師匠の着物の柄は「天」と読める。つまり女性は徳川第13代将軍家定の正室「天璋院篤姫(てんしょういんあつひめ)(注1)」を表している。

その横に座る女性は、うちわの模様が天皇家の菊花紋を連想できることから、第14代将軍家茂の正室「和宮(かずのみや)(注2)」である。

天璋院の前に座って「どうせヤケだよ こうなるからには 親も主人も 向こう面(づら)」と愚痴を言うのは、着物の絵ろうそくの模様から会津藩。今も会津の伝統工芸品である会津絵ろうそくは当時から有名だった。

ほかに座っている男性3人は、庄内藩、尾張藩、紀州藩と読み解け、家の中は全て旧幕府側である。

制作者が最も重視したのは、配置とセリフの大きさから会津藩だ。天璋院は「ごひいきを なにぶんお願い申します」と話し、会津藩の活躍を期待する。これは明らかに江戸の庶民の気持ちを代弁している。戊辰戦争の鍵になるのは会津藩で、きっと新政府軍を蹴散らしてくれると願った。

画面中央上部で背中を見せ横たわる人物は、着物の「欄干」模様から「欄干→橋→一橋」と連想できるため徳川慶喜だ。手にしている書物に「俺は今 ちと騒々しいから よく見て あとでやるよ」とあり、庶民は「必ずや後でやってくれる」と期待していた。

画面左側は新政府軍。口を開けて笑う男は着物の「サ」の柄から薩摩藩。不人気のため憎らしく描かれている。
男の子を抱える男は着物の柄が「萩の葉」で長州藩だ。頬かむりの男は手ぬぐいの「當(とう)」の字から藤堂氏の津藩。鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍を裏切ったことから、庶民に軽蔑された。

「おじさん 早く あすこへ 連れてっておくれよ」と言う男の子は、新政府軍に担がれた明治天皇を指す。庶民は天皇について新政府軍の主導者ではなく、薩長に操られていると受け取った。まさに「担ぎ上げられた」というわけだ。

このように「当世三筋のたのしみ」からは、庶民が幕府寄りで、新政府軍を批判的にみていたことが分かる。諷刺錦絵は受け手にも教養が必要なため、幕末の江戸には文化的に高水準の人々が多くいたことも物語っている。

◆江戸の町には「情報屋」

江戸時代後期の江戸の町には「情報屋」がいた。表向き古本屋を営んでいた須藤由蔵(よしぞう)という人物のことで、通称「本由(ほんよし)」と呼ばれた。

由蔵は江戸市中の事件やうわさ、地方の事柄などの記録に精を出し、庶民が知りうる情報をほとんど筆記していた。この情報を町民のほか、諸藩の記録方などの武士にも提供し生計を立てていた。

戊辰戦争が始まった1868(慶応4)年は、これまでよりも多くの情報が飛び交った。由蔵は、これらの膨大な情報を正確に書き留めていた。

錦絵の版元や絵師は、戊辰戦争に関する諷刺(ふうし)錦絵を作るため、情報を競って買い求めた。由蔵は、68年の初めの3カ月で諷刺錦絵は30万部以上も売れたと記録しており、諷刺錦絵が爆発的な人気を誇っていたことが分かる。

もりた・けんじ 1974(昭和49)年、神戸市生まれ。京大経済学部卒、京大大学院人間・環境学研究科博士後期課程単位取得退学。現在は大阪学院大経済学部教授。専門は社会思想史で、特に江戸時代の庶民思想の研究に注力している。著書に「明治維新という幻想」「江戸の瓦版」などがある。

(注1)天璋院篤姫(てんしょういんあつひめ)(1836~83年)薩摩藩主島津家の一門に生まれ、徳川13代将軍家定に嫁いだ。1年9カ月後に家定が急死すると、14代将軍家茂の養母として江戸城大奥を取りまとめた。江戸城に迫る薩摩藩の西郷隆盛ら新政府軍に働き掛け、江戸城無血開城に尽くした。

(注2)和宮(かずのみや)(1846~77年)討幕に反対だった孝明天皇の妹。朝廷の権威を掲げ、幕府再強化などを進めた公武合体政策の結果、1862(文久2)年、14代将軍家茂に嫁いだ。68年の鳥羽・伏見の戦い後、徳川家への寛大な措置を朝廷に嘆願した。

 ※「戊辰戦争」「明治維新」を新たな視点で問い直す長期大型連載「維新再考」は、引き続き福島民友新聞で毎週月曜日に掲載します。どうぞお読み下さい。