【維新再考・識者に聞く】御厨 貴さん(上・第2部)議会開設の願いは同じ

◆藩閥政府と民権運動

当時の政府を外から見れば薩長の、いわば藩閥政府に見えるわけだ。ただ、政府の中の連中は、薩長で全部政府を固めてと考えて実行するだけの余裕はなかった。それぐらい近代化というのは、すごい勢いで迫ってきた。それを「こなしていく」ことの方が重要だった。

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「こなす」ポイントは、この国に憲法と議会政治をどうやって導入するかだった。今後も独裁でいいなんて考えていたのは、薩摩の黒田清隆ぐらい。新政府が方針として定めた「五箇条の誓文」の第1条は「廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スベシ」だったからだ。つまり、明治政府はスタートの時点で、すでに議会政治をやるよ―と公表しており、一つの重しが統治の側にはあった。

ここが面白い。つまり、発展途上国などを見ると、政府が議会を開くと言っても、政府自らそんなことを守ってはいないし、反政府運動側も、そんな宣言なんて反故(ほご)にしてしまう。「やっぱり政府は議会なんかつくる気はなかった」という話になるが、日本の近代化の面白い点は、明治10年代以降、反対派の民権運動を敵視しながらも、やはり議会を日本に導入しなければいけないという、いわば強迫神経症的な近代化への風向きがあったということだった。

よく言われるのは、この時期から藩閥政府と民権運動とあって、統治の側は弾圧ばかりする。一方、民権運動の側は、ときどきは武力を持って反乱、暴動を起こすところまで

いく。そういう二項対立で語られてきた。だが私が調べてみたら、どうもそうではない。

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もちろん民権の側は、民権の側で「議会を開け」と言うが、最初に議会を開かなければならないと思ったのは政府の側だった。

「明治14年の政変」というのが起きる。これは、北海道官有物の払い下げが発端だった。北海道の開拓事業というのは、ずっと薩摩閥が独占していた。これを薩摩系の政商に安く譲り渡すという動きに「腐敗ではないのか」と、民権運動の側に火が付いた。政府の中にも「やっぱり、ちょっとまずい」という動きが出てきた。

この官有物払い下げと、国会の開設問題が連動していった。どう連動するのか不思議だが、当時の人の頭の中には「官有物の払い下げのようなことを政府が勝手に決めてしまうから、いろいろと問題が起きる。だから、議会政治のようなものがあったら、こういうことはないだろう」という、内面的な反省があったわけだ。

この問題を受け当時、政府内で一番急進的な議会開設論者だった大隈重信が「とにかく3年後に国会を開く」と言ってしまった。

しかし、それはまったく現実的ではなかった。そのため伊藤や井上馨ら長州の、いわば漸進的にやっていこうという連中が「こんなんでやったらいかん。大隈は民権運動の連中とつるんでいるに違いない」と。しかも、官有物払い下げにも大隈は結構厳しい。そこで、一種のクーデター(明治14年の政変)が起き、大隈は追放。そして政府は同年「結局、議会は開くが、それは10年後だ。それまでに憲法をつくる」と、明治天皇の名で統治のルールづくりを国民に約束してしまったのだった(国会開設の詔勅)。

一方、民権運動の側は、大隈が3年後と言ったので、すぐにでもできるかと思ったわけだが、「10年後」と言われ、がっくりくる。それで民権運動も過激化した。

ただ、この時期から政府は、放漫財政をやっていたら大変だと、薩摩の松方正義が中心になり、いわゆるデフレ政策をとった。すると当然、景気は悪くなる。当時、民権家というのは、士族中心ではなく豪農が中心だったので、(米価が下落し)農家はデフレの影響をかぶる。なので、下手に暴動を起こしたら鎮圧されるし、そうでなくても民権運動は、経済的な意味からも失速せざるを得なかった。

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農商務大臣の正装に身を包んだ晩年の
河野広中(田村市の柳沼サトシさん提供)

 

◆政治への不満噴き出す 河野広中、指導者に

明治初期、国の近代化を急ぐ新政府の下、変革が急激に進められた。しかし立憲政治は征韓論を巡る内部対立などで実行には移されず、薩長など西国雄藩出身者による寡頭政治(藩閥政治)が続いた。

こうした状況から政府への不満が農民一揆や士族反乱となって噴き出した。

政府への「攻撃」が、暴力から言論による自由民権運動へと変化した大きな契機は、征韓論がいれられず辞職した板垣退助、後藤象二郎(ともに土佐藩出身)ら元政府高官による1874(明治7)年の「民撰議院設立の建白書」提出だった。

板垣らは建白書で、薩長出身者ら一部指導者による専制政治が国を危うくしていると政府を攻撃。国を立て直すためには、すみやかに議会を開き国民を政治に参加させるべきと主張した。

この問題を巡る論争が新聞などで論議されることで自由民権運動は士族を中心に全国へ広がり、県内では三春藩の郷士出身の河野広中(1849~1923年)が、東北を代表する指導者として頭角を現した。

「人物叢書 河野広中」などによると、現田村市常葉町、現石川町で戸長、区長などを務めた広中は1875(明治8)年、地方民会(地方議会)の開設などを論議した、東京での地方官会議を傍聴。この経験を契機に、地方議会開設への活動に本格的に乗り出し、故郷三春で有志会を組織した。

この有志会を母体にして77年12月結成された政治結社「石陽社(せきようしゃ)」が、東北で自由民権運動の嚆矢(こうし)といわれる。
(編集局)

みくりや・たかし 東京都生まれ。東大法学部卒。ハーバード大客員研究員、東大教授などを経て、東大先端科学技術研究センター教授、東京都立大名誉教授、放送大学客員教授。専門は政治史、オーラル・ヒストリーなど。「日本の近代3 明治国家の完成」など 著書多数。66歳。

※「戊辰戦争」「明治維新」を新たな視点で問い直す長期大型連載「維新再考」は、引き続き福島民友新聞で毎週月曜日に掲載します。どうぞお読み下さい。

大型連載企画「維新再考」の第1部「識者に聞く」のうち、第2シリーズ「中村彰彦さん編」(全7回)が保存版になった。すでに保存版にまとめた第1シリーズ「半藤一利さん編」とともに福島民友販売店で無料配布している。

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