【維新再考・識者に聞く】御厨 貴さん(下)きれいな選挙すぐ限界

みくりや・たかし 東京都生まれ。東大法学部
卒。ハーバード大客員研究員、東大教授などを
経て、東大先端科学技術研究センター教授、東
京都立大名誉教授、放送大学客員教授。専門は
政治史、オーラル・ヒストリーなど。「日本の
近代3明治国家の完成」など著書多数。66歳。

近代国家建設へ国会の開会にこぎ着けた明治政府。しかし、選挙で議員が選ばれる衆議院は、反政府の姿勢を示す民権派の政党が多数を占め、「政府への議会の介入は許さない」と超然主義を宣言した藩閥側と激しく対立する。政治学者、御厨貴さんの「再考」最終回は、日本の議会政治の黎明(れいめい)期を解説する。

◆政党の必要性気付く

1890(明治23)年、第1回帝国議会が開かれた。だが、藩閥政治と言ってはばからなかった政府の中枢も、総理大臣を決める段には譲り合った。なぜなら絶対うまくいかないと思っていたからだ。そして政府は、いよいよ議会政治が始まるという時、議会を民権派に明け渡してしまった。

これは実に不思議なことだった。普通こんな政府はない。国が初めて議会を開設する場合、政府は政府党をつくり、選挙に干渉して政府党が圧倒的多数を占めるようにする―というケースが多い。しかし、それをせず、第1回の選挙は、武力干渉もなければ買収も行われず、模範選挙と言われた。なぜなら東洋で最初の議会の選挙が行われる、と西洋諸国が固唾(かたず)をのんで見ていたからだった。

ただ、ちゃんとやった結果、民党(民権派各党の総称)が圧倒的多数を占める議会ができてしまった。

政党側は「内閣制度ができたら次は議会だ。ここに、どうやって入り込んでいったらいいか」ということを考えた。この時、日本の民権運動の一つの限界が来た。それを象徴する、政党の側が言ったとされる有名な言葉が「よしやシビルは不自由であれ、ポリティカルさえ自由なら」。人権や市民権(シビル)が不自由でも、政治参加(ポリティカル)さえ自由なら私は政府を認める―という意味だ。

つまり「自分たちも藩閥政府が持つ権限の一部に、議会の中から入り込み、政治参加を成し遂げることが最大の目的だ」と言ってしまった。これが当時の民権派の限界だった。逆に言うとそういう民権派だったから、後に政府と一緒にこの国の政党政治をつくることができたとも言える。

さて、第1回の帝国議会。政府は山県有朋が総理大臣として議会に臨んだ。しかし、選挙で選ばれた議員は、政府と対立姿勢を示す民党が多数を占め政府の予算案を削ろうとする。

政府は当然困る。富国強兵には予算を通さねばならない。それで、ここで初めて「金権」を発動した。つまり買収だ。それを主導したのが陸奥宗光。民党の土佐派は、かつて陸奥と一緒に政府転覆を企てた連中で、人脈的につながっていた。それで民党は、政府が困らない程度に妥協した。

では、政府はこの事態を予測していなかったかというと、超然主義を宣言しているわけだから、議会が予算編成に入り込めぬような条文を作っていた。新年度予算を議会が削るなら、すでに議会を通っている前年度予算を政府がそのまま執行するというルールだ。今から考えるとそんなことできるのか―という話だが、しかし、これが政府には大失敗だった。

当時はどんどん近代化が進んでいく時期だったため、財政は毎年膨張する。それを政府は想定していなかった。だから、前年度予算執行権を使っても新事業がまったくできない。意外に明治政府というのはドジだったんだ。
さあ、それで第2回議会だ。山県は、もう懲りたと総理を降り、代わって薩摩出身の松方正義が明治天皇から就任を命じられた。この時も民党は大幅に予算を削ろうとしたが、もう買収が効かない。前より高額でなければ相手が応じないからだ。なので、いよいよ(総理大臣による議会の)解散が、ちらついてくる。いわゆる懲罰解散の強権だ。

しかし、政府は自分たちの政党をつくっていないから、放っておけば、また民党の連中が国会に戻ってくる。まさに「解散したからって何?」という話だ。

そのため政府はいろいろ選挙介入をする。これがすごかった。第2回総選挙では、狼藉(ろうぜき)の限りが尽くされたという。特に土佐では抜刀隊が出て、死人も出ている。

さて、総選挙の結果、当然国会は再び反政府党で占められた。しかも懲罰解散をしているから、帰ってきた連中はもっと血気盛ん。「政府打倒」となってしまう。

そこで伊藤博文はこの頃「政党をつくらなければいけない」と気付き超然主義を捨てた。そして、だんだんと政府が政党をどう養うか、あるいは、いかに民党と提携するか―という妥協の政治に入っていったわけだった。

要するに、明治憲法にも政党のことはまったく記されていなかった結果、第2回議会で行き詰まってしまい、政府の中心にいた長州勢が「政党をつくらないと、どうにもならない」ということに気付いていった。これが日本の議会政治の黎明期、政党政治の誕生前夜の様相だった。

◆補助線

数千人が喜多方署包囲

議会は予算案を否決したが、執行部は都合のよい手続きで対抗。第1回帝国議会と同様の出来事が、1882(明治15)年、議長河野広中ら民権派と県令三島通庸が対立する福島県議会でも起きた(前回参照)。これが自由民権運動への最初の弾圧事件「福島事件(喜多方事件とも)」の予兆だった。

会津では同年、三島県令が打ち上げた会津と隣県とを結ぶ三方道路計画に反対し、自由党員や農民らが訴訟運動を開始した。道路建設のため、住民には労働提供か現金納付が課せられたからだ。訴訟同盟の参加者は7千人に上ったという。これに対し県は「命令に従わない場合、土地を公売にかける」などと切り崩しに乗り出し、同年11月には喜多方署が運動の指導者宇田成一らを逮捕した。

このため同28日、農民ら数千人が弾正ケ原(現喜多方市塩川町)に集結し喜多方署を包囲。数人が負傷した。翌日からは関係者の検挙が始まり、河野広中ら58人(56人とも)が内乱罪などで高等法院の裁判に付され、6人が有罪になった(河野は軽禁錮7年)。

これに続き東日本では秩父事件など自由党員らによる暴発事件が続発したが、当局の弾圧で民権運動は一気に衰退した。(編集局)

※「戊辰戦争」「明治維新」を新たな視点で問い直す長期大型連載「維新再考」は、引き続き福島民友新聞で毎週月曜日に掲載します。どうぞお読み下さい。

連載「維新再考」の第1部「識者に聞く」のうち、「中村彰彦さん編」(全7回)、「磯田道史さん編」(全3回)、「森田健司さん編」(全7回)は保存版があり、福島民友販売店で無料配布している。なお第1シリーズ「半藤一利さん編」は好評のため品切れ。

提供についての問い合わせは福島民友新聞社販売局(電話024・523・1472)へ。