【維新再考・時代の落日】会津編1 「鶴ケ城」悲劇の幕開け

戊辰戦争で最大の激戦が繰り広げられた鶴ケ城。夕暮れに染まる会津の象徴は150年前の悲劇を想起させた

白亜五層の天守がそびえる鶴ケ城。本県を代表する観光地会津の象徴として人々を引き付けるのは、表情を持つからだろう。日の光の下の美しい立ち姿。それが夕暮れには、物悲しさが加わり、夜は静寂に包まれる。この表情の移ろいが、戊辰戦争で敗れた会津藩と重なる。「維新再考」第7部は、会津戦争をたどる。

◆柳沢秀夫さんと歩く

1868(慶応4)年8月23日、会津若松の城下に、新政府軍の進攻を知らせる半鐘が鳴り響いた。約1カ月にわたる籠城戦の始まりだった。

城下では、各地で戦闘が起き、次々と兵が命を落とした。足手まといになるまいと女性や子どもらが自刃していった。武士とその家族以外の人々も、平穏な暮らしを奪われた。城内では傷病者が増え混乱が日ごとに増していった。次第に城内も砲撃にさらされ、天守が標的になった。

同年9月22日、これ以上の籠城は無理だと、会津藩は降伏開城した。会津藩の戦死者は3000人を上回った。降伏後の会津藩は滅藩処分となり、藩士らは流罪ともいうべき運命をたどった。

「これまで歴史を素通りしてきてしまった。情けなさを感じる」

在京の会津出身者らでつくる「会津会」会長で、NHK解説主幹の柳沢秀夫さん(64)が、かみしめるようにつぶやいた。会津若松は18歳で離れた故郷。「実際に足を運び、正面から向き合って、歴史を知ることが始まる。そんな気がする」(文中の日付は旧暦)

◆守備手薄だった母成峠 新政府軍、瞬く間突破

会津会会長の柳沢秀夫さんは3度目の旅となった。戊辰戦争が勃発した京都、東北で戦闘が始まった白河に続き、今回は柳沢さんの古里の会津。JR郡山駅で落ち合うと「今まで戊辰戦争の歴史を振り返ってきたが、ついに戦火が会津に及んでしまう」と深刻そうな表情を見せた。柳沢家は会津藩士の家系で、先祖は戊辰戦争後に移住先の斗南(となみ)藩領(現青森県東部)で苦しい生活を強いられ、会津へと帰郷した。会津の悲劇に気が重いと語りつつ、会津の緒戦となった「母成峠」へ向かった。

二本松藩領を制した新政府軍は1868(慶応4)年8月20日(新暦では10月5日)、中通りなど各地から会津藩境に攻めた。この時の新政府軍の事情は「復古記」(明治政府が編纂(へんさん)した史料集)が詳しい。

新政府軍の会津攻略方針は「枝葉を刈って根元を枯らす」ため、会津藩の孤立を狙って周辺の藩を攻めた。冬が近づき寒さに不慣れな西日本出身の兵が多い新政府軍は不安だった。そこで一気に会津藩に総攻撃をかける「幹を刈って枝葉を枯らす」作戦に出た。会津への進路は白河、二本松街道など複数あるが、新政府軍は母成峠が最も手薄と見抜いた。道が険しく守る側にも油断があった。8月20日の藩境攻めは本命の母成峠を突破する陽動作戦だった。

「会津戦争といえば母成峠の戦いから全てが始まる」と柳沢さん。母成峠は郡山市熱海町石筵(いしむしろ)と猪苗代町の中ノ沢温泉を結ぶ「母成グリーンライン」が通る。頂上付近が両市町の境で、駐車場には「母成峠古戦場」の碑があり、周辺には会津藩などが築いた防塁、砲台跡が今でも残る。うっそうとした森の中にある痕跡を眺め「今でも当時の様子が分かる。ここで戦闘があったのか」と思いをはせた。

「会津若松市史」などによると、母成峠の戦いは8月21日朝から始まり、旧幕府兵や会津、二本松、仙台藩兵ら約800人が新政府軍約3000人を迎え撃った。新政府軍は兵力と装備で勝る上、複数ルートで進軍し、深く立ち込めた霧もあって姿が見えづらく、母成峠をあっけなく占領した。会津藩側の戦死者は88人だったという。

頂上駐車場から少し離れたところに、会津藩側の戦死者が埋葬された「東軍殉難者埋葬地」と地元住民が建立した慰霊碑がある。墓といっても土が盛ってある、いわゆる「土まんじゅう」である。

「この墓の存在は忘れさられていた。40年前に研究会の先輩たちが苦労して捜し出したんだ」と話すのは、慰霊碑の前で待ち合わせていた猪苗代地方史研究会(猪苗代町)の江花俊和会長(74)。さらに鈴木清孝事務局長(71)ら地元住民約10人も柳沢さんの到着を待っていた。戊辰戦争後、地元の人々が戦死者の遺体を仮埋葬した。その後、仮埋葬の伝承や痕跡は残っていたが、正確な所在が分からなくなってしまい、110年後の1978(昭和53)年になって発見されたという。

柳沢さんは40年前に戦死者の埋葬地が見つかったことにとても驚いた。「40年前といえば私がNHKに入局したての頃。それまで光が当たらない埋葬地があった。誰も気付かず先人に申し訳ない気持ち」と声を高ぶらせ、「会津の歴史を知っているように思っていたが、まだまだ知らないことだらけだ」と語り、手を合わせた。

江花さんは「地元住民として歴史に残る母成峠の戦いを風化させずに、遺構も保存していきたい」と語った。戊辰150年で猪苗代町が作ったのぼり旗に記された「忘るるなかれ 會津魂」という文字がひときわ目立って見えた。

次に向かったのは猪苗代湖北西の湖畔。会津盆地を流れる日橋川に架かる重要な防衛拠点だった「十六橋(じゅうろっきょう)」だ。「会津若松市史」などによると、母成峠を占領した新政府軍は翌22日朝、猪苗代へと攻め込んだ。兵力の少なかった会津藩兵は亀ケ城(猪苗代城)や土津(はにつ)神社を自ら焼いて城下に撤退した。一方、新政府軍も猪苗代の集落を放火しながら進んだ。慌てた会津藩兵は石橋の破壊に着手していたが、完了前に新政府軍が到着。銃撃戦になったがかなわず、同日午後には突破されてしまったという。

「十六橋を奪われると鶴ケ城まで目と鼻の先。十六橋を失ったことで戦火は予想外の速度で鶴ケ城の城下に迫った」と話すのは、猪苗代の歴史に詳しい小桧山六郎さん(72)=同町。柳沢さんは「母成峠の手薄な防備を察知したこともだが、なぜ(新政府軍は)恐ろしいほどこんなに早く行動できるのか」と疑問をぶつけた。小桧山さんは「新政府軍は事前に情報収集をしていたと思うが、地元住民による道案内が有効だった。平穏な暮らしを奪われた農民層の反発もあったのでは」と指摘した。

鶴ケ城に母成峠の敗報がもたらされたのは突破翌日の22日朝方と遅い。新政府軍の速攻に「市中は非常に動揺した」(「会津戊辰戦史」)という。会津藩はすぐに戸ノ口原に援軍を派遣し、後に飯盛山で自刃する白虎隊士中二番隊も出陣した。小桧山さんは「会津藩は情報収集や情報伝達が十分でなかった。これが少年たちや女性たちの悲劇につながる」と残念がる。柳沢さんは23日に新政府軍が鶴ケ城城下に攻め込んだことについて「会津藩の長い籠城が始まっていく。母成峠と十六橋をしっかりと防備できていれば違う展開もあったはず」と話した。

やなぎさわ・ひでお 1953年、会津若松市生まれ。会津高、早稲田大政治経済学部卒。会津藩士の子孫。77年にNHK入局、横浜、沖縄各放送局記者を経て84年から外信部記者。バンコク、マニラ各特派員、カイロ支局長を歴任しカンボジア内戦、湾岸戦争などを取材した。NHK解説主幹で、生活情報番組「あさイチ」に3月まで出演した。2017年から会津会(東京)の第8代会長。64歳。