【維新再考・時代の落日】会津編2 正規兵少なく進軍許す

戊辰戦争の弾痕や刀傷が残り、松平容保の肖像画が飾られている旧滝沢本陣を訪ねた柳沢さん。横山さんから当時の伝承を熱心に聞いた

戊辰戦争の最大の悲劇、会津戦争をたどる「維新再考」会津編。第2回も在京の会津出身者らでつくる「会津会」会長の柳沢秀夫さんを旅の同行者として迎えた。1868(慶応4)年8月22日、白虎隊が出陣命令を受けた旧滝沢本陣をスタート地点に、新政府軍が城下へと攻め込む状況を考える。(日付は旧暦)

◆柳沢秀夫さんと歩く

新政府軍は8月21日、守備が手薄な会津藩境の母成(ぼなり)峠を占領。22日に猪苗代湖北西の十六橋(じゅうろっきょう)を破り、23日に鶴ケ城の城下に攻め込む電光石火の進軍だった。すぐに城下が制圧されたのは会津藩の主力部隊が日光や越後、白河方面の藩境に出陣しており、正規兵でない少年の白虎隊や高齢の玄武隊、農兵などしかいなかったためだ。

会津藩士北原雅長(家老神保内蔵助の次男)は、母成峠の敗報が鶴ケ城に伝わった22日朝の状況について「城下にいる兵は老幼と病人で、出陣できる兵は数えるほどしかなかった」(「史談会速記録」の抜粋・意訳)と振り返っている。

ただ、会津藩は一方的に攻められたわけではない。猪苗代方面に猛将の佐川官兵衛らが率いる増援兵を送り込む防衛策を講じた。さらに「会津戊辰戦史」(山川健次郎監修)は「我(わ)が公は自ら馬を進めて(兵の)士気を鼓舞しようと、鶴ケ城を出て滝沢村に向かった」と記述。前藩主松平容保(かたもり)(既に家督を養子に譲ったが引き続き政務を行う)が、22日午後に白河街道の滝沢口にある滝沢本陣(現在の滝沢本陣横山家住宅)に出陣し、指揮を執っていたという。

柳沢さんが旧滝沢本陣を訪ねた。「訪れたのは小学校の社会科見学のとき以来だな」と言い、重厚な茅葺(かやぶ)きの門をくぐって歩みを進めた。

滝沢本陣は周辺の村々の肝煎(きもいり)(村役人)を束ねる「郷頭」を務めた横山家の住宅で、歴代藩主が参勤交代などで旅支度を整える休息所として利用した。東北地方で最古の民家として国の重要文化財に指定され、当時の姿のまま保存されている。

柳沢さんを迎えたのは横山家に嫁いで60年以上になる操さん(89)。藩主が使う御座之間に案内しながら「出陣した容保公はここで指揮を執っていた」と説明。近くの柱や戸に残る生々しい銃痕や刀傷を指し示しながら「新政府軍による痕跡が今も十数カ所に残っている。横山家の先祖は避難して無事だったそうだが、その後も戦乱に巻き込まれた」と話した。

150年前にタイムスリップする感覚が味わえる滝沢本陣。縁側に腰掛けた柳沢さんは「鳥羽・伏見の戦いに敗れて以来、朝敵と名指しされてきた容保公。ついに城下に敵が近づいてくる切迫した状況下で、どんな思いを抱いたのだろうか」と語った。目前に新政府軍が迫る中、容保は滝沢本陣で一夜を過ごして運命の23日を迎える。

◆家焼かれ城下大混乱

会津戦争の悲劇といえば飯盛山(会津若松市)での白虎隊の自刃が挙げられる。滝沢本陣で十六橋の苦戦を知った松平容保が22日、同行した16~17歳の白虎隊士中二番隊約40人に戸ノ口原への出陣を命令したことから悲劇は始まった。

白虎隊は全員自刃したと誤解されがちだが、実際は約300人おり、約8割が生き延びた。集団自刃に及んだのは士中二番隊の一部(人数に諸説あり)で、このうち飯沼貞吉のみ蘇生した話が有名だ。

隊士の酒井峰治の手記「戊辰戦争実歴談」によると、戸ノ口原への行軍では「皆、躍り上がるほど喜びながら滝沢峠を越えた」(意訳)と少年らしい記述もある。だが敵兵を確認してからは胸壁や陣を築いて懸命に戦った。しかし新政府軍との兵力差などで総崩れとなり23日朝に退却した。

柳沢さんと飯盛山や戸ノ口原を訪ねた。

「自刃した白虎隊士の家とかつて縁戚関係があった。しっかりと手を合わせなくては」。柳沢さんは飯盛山の白虎隊墳墓で深く祈りをささげ、自刃した「鈴木源吉」(側医の次男)の墓石を見つめた。「容保公にとって主力部隊がいない中、少年ばかりの白虎隊士に出陣命令を出すことは苦渋の決断。これも新政府軍の驚くべき速攻が影響したのか」とぽつり。

戸ノ口原は、会津の歴史に詳しい小桧山六郎さん(72)=猪苗代町=が案内した。旧二本松街道沿いに塹壕(ざんごう)跡が点在し「十六人墓」などの合葬墓が複数ある。小桧山さんは「士中二番隊の記録には食い違いがあり、どんな行動をとったか不明な部分は多い」とした。柳沢さんは「戸ノ口原を突破されれば後がない。会津藩士は決死の覚悟だったろう」と心情を推し量る。

23日午前、新政府軍の城下に攻める勢いは猛烈だった。松平容保がいた滝沢本陣に銃撃が及んだため、やむを得ず城内に引き揚げた。新政府軍は会津藩の主力部隊が戻らないうちに城下を制して城を孤立させる狙いで、武家屋敷などを焼き払い、市街戦が展開された。

二本松藩領民で新政府軍の軍夫の従軍記は「(新政府軍は)家に火をかけて焼き払い、町家や寺、神社は残らず分捕りしていた」と記す。裏付けるように飯盛山近くの旧白河街道沿いの江戸時代からの商家「山城屋」(現在は米穀店)の蔵の引き戸(改修で内部に固定)に薩摩藩の分捕りの墨書が残る。

山城屋の大須賀啓次社長(70)は「戊辰戦争で蔵が荒らされて先祖は大変苦労した。墨書はその過去を示す証し」と話した。蔵を見学した柳沢さんは「新政府軍が攻め込んだ城下は放火に強奪と大混乱に陥った。戊辰戦争は武士だけでなく全ての人が巻き込まれた」とかみしめるように言った。

やなぎさわ・ひでお 1953年、会津若松市生まれ。会津高、早稲田大政治経済学部卒。会津藩士の子孫。77年にNHK入局、横浜、沖縄各放送局記者を経て84年から外信部記者。バンコク、マニラ各特派員、カイロ支局長を歴任しカンボジア内戦、湾岸戦争などを取材した。NHK解説主幹で、生活情報番組「あさイチ」に3月まで出演した。2017年から会津会(東京)の第8代会長。64歳。