【維新再考・時代の落日】会津編3 過去知れば未来変わる

柳沢さんは鶴ケ城本丸に立ち、「戊辰150年を契機に、先人の歴史を深く知りたいと改めて感じた」と語った

会津戦争をたどる「維新再考」会津編の第3回。旅の同行者として迎えた会津会会長の柳沢秀夫さんが登場するのは今回が最後となる。1868(慶応4)年8月23日から約1カ月に及んだ会津藩の籠城戦に焦点を当てながら、柳沢さんが戊辰150年の節目について考えを巡らせた。(日付は旧暦)

◆柳沢秀夫さんと歩く 節目の年、旅の入り口

新政府軍の集中砲火にさらされながら会津兵やその家族は懸命に戦い抜いた。鶴ケ城へと向かう道中、柳沢さんは本連載で各地を巡ったことを振り返り「初めて知る歴史が多かった」と痛感、「150年の節目に歴史と向き合うのは入り口にすぎない。むしろこれからが始まりなんじゃないかな」といつになく語気を強めた。

会津人の心のよりどころである鶴ケ城を会津藩の歴史に詳しい会津若松市教委文化課の近藤真佐夫さん(60)が案内した。

まず向かったのは城内にある鐘撞堂だ。今も毎日正午に鐘がつかれている。この鐘は150年前の籠城戦の最中も正確に時を告げた。疎ましく思った新政府軍の狙撃で隣接する櫓(やぐら)が炎上し、撞(つ)き手も死傷したが、撞き手を交代してつき続けた(「會津戊辰戦史」など)。

柳沢さんは鐘撞堂に入り、「150年前の人もこの音を聞いたと考えると感慨深いなぁ」としみじみ見つめた。近藤さんは「鐘撞堂を巡る逸話は会津人の実直さを示すもの。鐘の音は城内外の会津兵に勇気を与えた。さらに城内からは凧(たこ)も揚げた。籠城中も会津藩は涼しい顔で戦意を示した。その意地に新政府軍も感じるものがあったのでは」と語った。

土佐藩兵の従軍記「宮地團四郎日記」では、新政府軍による集中攻撃によって連日にわたり「砲声は絶えない」とする中、9月1日条で鐘について書き残している。「城中では時の鐘を打ち、動揺しているようにみえない。風が吹く日は凧を揚げている」(意訳)

籠城戦初日の新政府軍は鶴ケ城の外郭(外堀と土塁)を突破して城の北側に迫った。会津藩士荒川勝茂の記録「明治日誌」では、城内でも「敵の弾丸が雨のよう」と表現し、特に「天神口が大切迫した」と伝える。これはいったん退却した新政府軍が城の南側を攻めたことを示している。

天神口では、会津兵は銃撃の中を槍(やり)で突撃し、多くの死傷者を出しつつ退散させた。「明治日誌」では会津兵の突撃を「討ち死にを一同固く誓い、一歩も引かずに何度も突入し、屍(しかばね)を乗り越え、叫びながら進み、敵は勢いを恐れて敗走した」と記す。

この戦いを描いた図が近年、同市七日町にある阿弥陀寺の「御三階」(城内から移築した建物)から見つかった。近藤さんは籠城戦の序盤について「会津藩は懸命に防備を固めた。次第に主力部隊が帰還して兵力がそろった。新政府軍は城門突破を諦めて城を包囲する戦法にした」と説明。柳沢さんは「運命は表裏一体。籠城戦に持ち込まれて、城内は阿鼻(あび)叫喚の生き地獄になった」と応じた。

天守閣の最上階から、東南方向にある小高い「小田山」を眺めた柳沢さん。新政府軍は小田山から天守閣を標的に発砲し、砲弾が炸裂(さくれつ)する城内は地獄の光景が繰り広げられたことに思いを巡らせた。

城下では会津兵などの必死の反撃が各地で展開されていた。城内で唯一確保していた天神口から物資を補給していたが、やがて圧倒的な兵力差を前に窮迫する絶望的状況に追い込まれた。頼りの援軍もなく、会津藩は9月22日に白旗を掲げて降伏した。籠城者は婦女子を加えて約5千人だった。

近藤さんは戦い続けた理由について「会津藩は天皇や徳川家に忠義を尽くしたのに賊軍となった。負けると分かっていても賊ではないと示したかった」とみている。柳沢さんも先人の思いに理解を示す一方、「籠城戦の最中、戦争に関わりのない庶民は日常を乱される生活を送った。会津藩も戦略的な意味から集落に火をつけたりと各地で過ちを犯してきた」と指摘。「今までと同じ歴史を語っていては変化がない。150年の節目だからこそ考えるべき」と冷静に歴史をみる必要性を訴えた。

鶴ケ城を離れ、外堀の土塁跡「天寧寺町土塁」(同市花春町)や藩校日新館の唯一の遺構「天文台跡」(同市米代)を巡り、最後に阿弥陀寺にある東軍墓地で会津藩戦死者3千人超の冥福を祈った。

柳沢さんは「歴史は主語によって見方が変わる」と前置きした上で「私は会津人なので会津の悲劇を語る。薩長と聞くと心に引っ掛かる」と話し、言葉を探した。「これでは節目に歴史を考えた意味がない。戊辰150年は未来も考えるべきだ」と自らに問い掛ける。「戊辰戦争に限った話ではないが、過去は変えられない。しかし過去を知ることで未来は変えることができる」。柳沢さんの会津の歴史を考え直す旅は、始まったばかりのようだ。

やなぎさわ・ひでお 1953年、会津若松市生まれ。会津高、早稲田大政治経済学部卒。会津藩士の子孫。77年にNHK入局、横浜、沖縄各放送局記者を経て84年から外信部記者。バンコク、マニラ各特派員、カイロ支局長を歴任しカンボジア内戦、湾岸戦争などを取材した。NHK解説主幹で、生活情報番組「あさイチ」に3月まで出演した。2017年から会津会(東京)の第8代会長。64歳。