【維新再考・時代の落日】会津編4 西へ、南へ避難民の列

町野、南摩家の自刃者が葬られた勝方寺の裏山を巡る井上さん=会津坂下町

鶴ケ城での籠城戦は約1カ月続いた。この間、城内へ入ることのできなかった武士の家族らは、農村や山へと苦難の逃避行を強いられた。しかし、戦火は、それを追い掛けるように、会津各地へ広がり、一般の領民たちも苦難を強いられたという。(日付は旧暦)

県道会津若松三島線は、かつて若松城下と柳津町の銀山とをつないだ街道。城下と周辺地域との間で、人や物資が行き交っていた証しだ。そんな説明を会津歴史研究会の井上昌威(よしたけ)会長(83)から聞きながら、人々が150年前、戦火を逃れ、たどった道をなぞるように、会津若松市の市街地から車で西へ向かった。

1868(慶応4)年8月23日朝、新政府軍が会津若松へ進攻した日、城下は大混乱に陥った。鐘の音を合図に、老人、子どもは鶴ケ城内へ入れ―とのお触れが回っていたが、敵が迫ると城門は閉じられた。このため城外へ逃れた人々も多かった。

新政府軍が進攻してきたのは北東の方角。そのため「人々は、その逆の西や南へ逃げた」と井上さんは説明する。

記録では当時は雨。連日雨が続いており、ぬかるみの中を駆ける人々の姿が目に浮かぶ。

避難の状況を、会津美里町文化財保護審議会長の笹川壽夫さん(84)が、会津若松市で発行されている季刊誌「会津人群像」の12号(2008年)に発表したリポートで簡潔にまとめている。

「親戚縁故を頼って、在郷へと難を避けようする女子供たちの群れは延々と続いていた。塩川、坂下、高田方面への道筋は逃げ惑う人々の列がどこまでも続いていた」。そして人々の行く手を雨で増水した阿賀川が阻んだ。「城下の西方、大川(阿賀川・編注)は川幅広く水勢急で、その当時は舟でもって往来していた。(中略)渡し場では我先にと乗舟を競い、幼児の泣き声は悲痛この上もなかった。乗る人があまりにも多いため、舟が動かないほどだ。舟はたびたび転覆し、溺れる者は手をあげて救いを乞うている。死傷者はかなりの数にのぼっていた」

当時と同じく雨模様の中を、井上さんに導かれ着いたのは、会津坂下町の勝方(かちかた)地区。平らな土地が尽き、緩やかに山が始まる。そんな会津盆地の西の縁にある、古くからの集落だ。家々の西側は、緑の濃い裏山。そこから先は山地がただただ広がる。

「昔の人々は、敵が来ると近くの山の中へ逃れた。若松城下の人々が目指したのも、城下から十数キロほどの所にある西と南の山々だった」。そう説明する井上さんと、集落内の勝方寺(しょうほうじ)を訪れた。

墓域である裏山を登り杉林に入ると、小さな古い墓石と比較的新しい石碑があった。傍らの看板には「町野、南摩家家族殉難の碑」と書かれている。

「会津戊辰戦史」によると町野、南摩の両家族は、それぞれ会津藩士の町野源之助と南摩弥三右衛門の母と妻子、兄弟らを指す。両家族の母同士が姉妹で、ともに城下から勝方村(当時)に逃れていた。しかし9月1日「鶴ケ城が落ち敵軍が迫っている」との誤った知らせを聞き、同7日、勝方からおよそ半里(約2キロ)離れた山中で計8人が自刃した。その後、南摩家の使用人らが、遺体を同寺に埋葬。石碑は1993(平成5)年、町野家の子孫が建立した。

◆記録に残らぬ苦渋も

避難は集団でも行われた。旧会津高田(現会津美里)町旭無量の山田家が所蔵する文書「慶応四戊辰戦乱ノ際避難人名調」(「会津高田町史」第3巻所載)は、8月23日、旭無量へ逃れた避難者の名簿。家族名と人数、宿泊先が列挙され、その数は75件、計410人。うち武士の家族とその家来らしい人が78人。笹川さんは「前もって藩から避難を要請されていたのだろう。まさに集団疎開で、武家の人々と町人が両方入っている点が興味深い。そして、こうした集団疎開の記録は、ほかには見当たらず、極めて貴重だ」と話す。

その言葉通り、その最期や被害が記録に残る者はごく一部だ。

井上さんは「会津人群像」26号(2014年)に「会津に在る小梅塚(子塚)」と題する文章を発表した。

約1カ月の籠城戦の間、一般の領民らが強いられた「屈辱と苦難」についてのリポートで、井上さんは「会津の村々では長州藩の奇兵隊士や、荷物運びのならず者達は、強盗三昧(ざんまい)、婦女暴行をして村々を手当たり次第に荒らし回ったと伝えられている」とし、住民の間で口伝えで伝えられてきた戊辰戦争の「記憶」を記した。

タイトルの小梅塚(子塚)とは暴行され妊娠した女性の産んだ子どもを、村人たちがひそかに埋めた後にできた土まんじゅうを指す。

新政府軍兵士の盗みや暴行などについては、会津藩士荒川類右衛門の「明治日誌」に自身の目撃談が、「会津戊辰戦史」では住民の目撃談が記されている。しかし、被害者自身が残した記録は見当たらない。

井上さんは「周囲の住民は口を閉ざした」と言い、自身は長い時間をかけ、どこの地域の誰の話かは決して明らかにしない約束で、伝承を聞いたのだと説明する。

そして「会津の農村には、年齢の離れた血縁のない女性同士が、親子のような関係を結ぶ風習があった。親に当たる女性は、年下の女性の婿取りや嫁入りの世話をし、観音巡りなどもしたという。こうした風土が関係するのだろう。被害を受けた女性たちを村ぐるみで守った。会津で盛んな観音巡りの信仰も、戦争の被害が背景にあるのではないか」と持論を語った。

作家の星亮一さんは「昔の戦争では例えば退却のとき、敵に利用されぬよう家々に放火した。それが当たり前のこととして行われ、庶民が犠牲になった。会津藩の軍勢も、残忍な行為に関係していなかったわけではない」と言う。

星さんの著作「呪われた明治維新」(さくら舎)には、戊辰戦争に従軍したイギリス公使館付医官ウィリアム・ウィリスの報告が引用されている。それによると、会津兵が越後へ退却する途中、婦女暴行や盗みを働き反抗する者を殺した―という。星さんは「戦争はどちらの立場にとっても悲惨だ」と静かに言う。

◆老幼婦女助けるため開門

「会津戊辰戦史」には、川原町(鶴ケ城の西側)の郭門を出ようとする群衆と、「君命だ」と言い門を開けない兵との緊迫した状況が記されている。結局、60代の武士が、非常事態に命令とはいえ老幼婦女を見殺しにするのか―と詰め寄り、兵は門を開いた。