【維新再考・時代の落日】会津編5 魔の10日間、耐えて反撃

会津藩の鉄砲鍛冶が江戸時代後期に製作した火縄銃を構える高橋一美・会津新選組記念館館長。古式鉄砲を研究する高橋館長は「幕末の猟師たちも同型の鉄砲を使っていた」と話す

会津戦争で戦ったのは、武士だけではなかった。鶴ケ城で籠城戦が続いていた頃、「南山(みなみやま)」と呼ばれた奥会津一帯では、侵入した新政府軍を農兵隊がじりじりと押し戻していた。戦いには戦国時代まで南山を治めていた領主の子孫も加わり、中世の主従関係を復活させた強力な組織力を発揮した。南山の戦いを3回に分けてたどる。

南山の農兵、強い結束

「約千人の農兵が、駐留していた新政府軍を追い出そうと命がけで陣屋の周りに集まった。取り囲まれた側は相当な恐怖感を味わっただろう」

南会津町・奥会津博物館研究員の渡部康人さん(57)は、田島(南会津町)で起きた農兵による新政府軍襲撃をそう推測した。1868(明治元)年9月9日(旧暦)の朝、寺の鐘や鉄砲の音を合図に、田島陣屋の周辺に農兵らが押し寄せた(前日の9月8日には明治に改元された)。

この襲撃について、栗生沢村(現同町栗生沢)の名主湯田久右衛門の「聞書」(「田島町史」第6巻下所載)には、新政府軍の横暴に耐えかねた名主らが「秘密会議」を開いて決定したと記されている。

襲われた新政府軍の兵士らは、驚いて陣屋を飛び出した。その後、農兵に討ち取られた者も少なくなかった。渡部さんは「多くの農兵は、斧(おの)や、クマを突くための槍(やり)などを手にしていたはずだ」と想像する。

田島陣屋が当時あったのは、会津鉄道会津田島駅の近くとされる。南東に約200メートル離れた場所に立つ慈恩寺には「官軍戦死十九人墓」が残る。野ざらしになった戦死者の遺体を、同寺の僧伊藤宥慶が集め、供養したという。

南山へ新政府軍が侵入したのは会津戦争の終盤のことだった。

同年8月、城下に新政府軍が進攻してくると、国境を固めていた会津藩士らは鶴ケ城を目指し引き揚げていった。その隙を突くように、新政府軍は日光口や叶津口から南山へと進軍してきた(日光口、叶津口など口の付く地名は、他領との境界を意味する。付近にはそれぞれ口留(くちどめ)番所と呼ばれる関所が置かれた)。

「田島町史」によると、新政府軍は日光口を越え、同月29日に田島に入った。そして、会津勢の抵抗を受けることなく、すんなりと陣屋を手にした。渡部さんは「それには、訳があった」と話す。

29日朝、会津藩士らが陣屋を引き払う際、御蔵入奉行の江上又八は兵火が村に及ぶことを心配し、集まった村役人に新政府軍にあらがうことなく、丁寧に対応するよう涙ながらに説いた。江上の説得を受け入れた村役人らは、新政府軍を出迎え田島まで案内した。

新政府軍のほとんどは翌朝、城下を目指し村を出て行ったが、田島の人々の忍耐は続くことになった。残った100人程度が家具や道具などを「分捕り」するなど乱暴に及んだ。町史は襲撃までの日々を「魔の10日間」と表現する。渡部さんは「田島の農兵たちは、信義をかけていたのではない。ただ自分たちの生活を取り戻したいという一心だった」と語った。

田島陣屋襲撃の半年ほど前の同年3月、鳥羽・伏見の戦いで敗れた会津藩は、年齢別に隊を編成するなど軍制改革を行い、同時に農兵を募集した。「会津若松史」は藩全体の農兵は約3080人で、藩士らでつくる3千人余りの正規軍に匹敵する規模だったとする。

国立歴史民俗博物館教授の樋口雄彦さん(56)は「農兵は会津藩に限ったことではない。西洋列強による軍事的脅威や幕藩体制の動揺を背景に、この時期、全国の諸藩で同様の組織が生まれた」と解説する。農兵隊の形態はさまざまで、大庄屋層が重役、庄屋層が各係、一般農民が兵士といったように、村を支配する仕組みがそのまま投影された場合もあったという。

深い山に囲まれた南山では、農兵隊のほかにも猟師隊などがつくられた。渡部さんは「各村落にはクマを撃つための猟師鉄砲もあれば、田畑を荒らす動物を追い払うために使った威筒(おどしづつ)もあった」と語る。代官が交代した時に、村落の人数や石高を記して差し出した書上帳(かきあげちょう)の多くには、猟師鉄砲と威筒の数が記されているという。

火器の扱いに慣れた村人は、名主らに指揮され、鉄砲や威筒を持って国境の警護についた。猟師の名とそれぞれの担当場所を記した文書も残されている。

田島陣屋の襲撃でも、村人が鉄砲を効果的に使う様子が記録されている。「聞書」によると、陣屋から追われた新政府軍の兵が栗生沢村に向かってきた時、山の中腹にある神社に村人たちが集まっていた。新政府軍の姿を見つけると、ときの声を上げ「鉄砲二発」を撃ち威嚇した。驚いた兵らは「ちりぢりばらばら」になって逃げた。

渡部さんは「強力な武器があったわけではないが、子どもたちや家族を守るために必死だった。ここでの戦いの主役は、武士ではなく、農民だった」と話した。