【維新再考・時代の落日】会津編6 南山の暮らし守る戦い

伊南川に沿って、水田が広がる南会津町伊南地区。農兵たちが命を懸けて守ろうした伊南谷は今、実りの秋を迎えている

会津戦争の終盤、激戦が繰り広げられた南山(みなみやま)(奥会津)では、戦国時代までこの地を治めた領主の子孫が、農兵隊を率いた。中世の主従関係を下地にした農兵隊は強い結束力を示し、新政府軍を追いやった。それから150年、古里を自らの手で守った先人たちに光を当て、語り継いでいこうとする動きがある。(日付は旧暦)

「会津藩は多くの藩士を送り込めない南山の守りを固めるため、280年も昔の主従関係を利用した」。南会津町教委の河原田宗興さん(58)は、そう話す。

南山の西南部にあった伊南郷(南会津町伊南、檜枝岐村ほか)の河原田氏、西北部に位置した伊北(いほう)郷・金山谷(只見、金山両町ほか)の山内氏など、16世紀末までこの地域には城を築き一帯を治めた領主がいた。戦国時代が終わると領主らは南山を去ったが、家来の多くが土地に残り帰農した。河原田さんは「郷頭や名主など村の有力者のほとんどが、家来筋だ」と言う。自身も伊南郷に残った一族の流れをくむ。

一方で、領主らの子孫で、会津藩士になる者たちもいた。領主の血を引く河原田治部(じぶ)、山内大学らは城下に屋敷を得て、藩士として暮らしを立てていた。

南山の警備を強化する必要に迫られた会津藩が注目したのは、こうした領主と家来との古い結び付きだった。藩は子孫らを探し農兵隊を編成すると、治部や大学らに指揮を任せた。

鳥羽・伏見の戦いで会津藩が敗れて間もない1868(慶応4)年1月17日、家臣団ともいえる農兵隊を率いるため伊南郷にやってきたのは、治部の長男で16歳の包彦(かねひこ)だった。治部は北方警備で会津を離れていた。

河原田さんによると、少年の包彦が「皆の衆、出(いで)まぁーせーぃ」と堂々と声掛けし、隊を率いたとのエピソードが地域に残されている。後に伊南に入った治部は農兵隊に「河原田精神隊」の名を与えた。精神隊は砲術などの訓練を重ねたという。

河原田さんは「戦おうとした伊南の人々には、自分たちの先祖が伊達政宗に対しても、まとまって抵抗し、この地を守ったのだという自負があったはずだ」と推し量る。伊達軍が伊南を襲ったのは、1589(天正17)年。伊南勢は伊南川を挟んで対峙(たいじ)し、最後まで伊達軍に下ることはなかった。

◆地形熟知し奇襲成功

「伊南村史」によると、精神隊は新政府軍が城下に進攻すると、高田(会津美里町)で戦ったとされるが、やがて南山へと戻ってくる。精神隊の戦いは1868年9月22日の鶴ケ城開城後に激しさを増した。治部に降伏の一報は届いていなかったとされる。

新政府軍は叶津口から侵入し、伊南川をさかのぼって入小屋(南会津町)にいた。針生(同町)に陣を置いていた精神隊を含む会津勢300人余りは23日未明、新政府軍を奇襲した。道を避け、山伝いに進むと、敵の背後を突いた。河原田さんは「伊南には山を熟知した山伏隊もいた。地形を知り尽くした会津勢は、圧倒的に優位に戦いを進めた」と語る。混乱して退却する新政府軍を、精神隊はさらに追撃、伊南川の下流に押し戻した。

河原田氏の菩提寺(ぼだいじ)、照国寺(同町)。境内には包彦をたたえる石碑がたたずむ。包彦は戊辰戦争後、藩士らの謹慎先となった高田藩(新潟県)で病死した。碑は、ともに戦った人々が包彦を悼み1894(明治27)年建立した。「伊南の人々は一緒に戦った包彦への感謝を忘れなかった。治部親子の下で結束し、圧力に屈しなかった先祖は私たちの誇りだ」。河原田さんは碑を見上げながら、そう話した。

「鶴ケ城の開城後に、南会津で戦いがあったという事実はこれまでそれほど注目を浴びなかった」。南会津町・奥会津博物館長の星不二夫さん(62)はそう話す。「自分たちの生活を守るために、先祖たちは行動した。そうした人がいたことを知ることが、ここで生きる人たちの心意気を育んでいく」と星さんは話した。