【維新再考・時代の落日】会津編7 只見にあふれた避難民

峠道「八十里越」。長岡藩士らが越えた1868年8月、長雨が続き、道はぬかるんでいたという

越後と南山(奥会津)を結ぶ峠道「八十里越(はちじゅうりごえ)」。吉ケ平(新潟県三条市)から叶津(只見町)まで続く約32キロの険しい山道を越え、1868(慶応4)年8月、新政府軍に敗れた越後・長岡藩から多くの人々が南山に逃げ延びてきた。その時、傷ついた長岡藩士や家族らを助けたのは、八十里越を通って越後で戦った只見の人々だった。(日付は旧暦)

長岡城が新政府軍の手に落ちてから間もなく、只見は騒然となった。「8月2日から10日ごろまで、越後から八十里越を通り、少なくとも1万2千人がやってきた」。会津史学会理事の飯塚恒夫さん(83)はそう話す。古文書の記述などから推計するが、2万人余りが押し寄せたと伝える記録も残されている。

長岡城は5月、新政府軍の攻撃で落城した。長岡藩軍事総督、河井継之助らが奪還するが、激しい反撃に7月29日、再び落城した。奥羽越列藩同盟側の兵士が、越後平野を次々に攻略した新政府軍を避けながら長岡から退くには、八十里越しか残されていなかった。

「只見町史」によると、2度目の落城後、最初にこの峠を越え会津側へ逃れてきたのは米沢藩士ら422人だった。港があり、交通の要所だった越後には、米沢、仙台、庄内など各藩が兵を派遣。会津藩も多くの兵を配置していた。

長岡藩士は各藩の引き揚げ兵とともに、山中に長い列を作った。藩士の妻や幼い子ども、年老いた親たちも峠を越えた。飯塚さんは「この時期は新暦の9月中旬。台風シーズンで長雨が続いた。人々は増水した沢を渡り、泥に足を取られながら、ずぶぬれになって只見にたどり着いただろう」と言う。一行の中には、長岡の戦いで負傷した河井もいた。河井は到着後、手厚い治療を受けるが、ほどなくこの地で没した。

◆八十里越の絆で救済

当時、只見川上流域にあった民家は8カ村290軒程度。あふれた避難民は伊南川下流域にも宿を求めた。小さな村々に1万人余りが押し寄せたことで、大量の食糧確保が急きょ必要になった。会津藩の責任者として対応することになった藩士、丹羽族(やから)は苦境に立たされた。

丹羽らの要請で只見の人々は、飢饉(ききん)に備え蓄えていた郷倉の米や、家に貯蔵していた米を持ち出した。だが、台風による大水で若松城下から米の輸送が滞るなど、状況は思うようにいかなかった。

打つ手がなくなった丹羽は、6日未明自刃した。飯塚さんは「丹羽は命に代え窮状を訴えた。その死を知った村人がわずかな蓄えまで差し出したことで、危機を乗り越えることができた」と語る。

丹羽の生涯にひかれた飯塚さんは、丹羽家のその後を調べた。当時16歳だった丹羽の子、五郎は戊辰戦争を生き抜き、東京へ移住。警察官となり西南戦争にも従軍した。後に警視庁を退いた五郎は北海道で開拓に挑み、切り開いた原野に「丹羽村」の名を付けた。現在も「せたな町北檜山区丹羽」として、丹羽の名が残されている。

丹羽の死に心を動かされ避難民を救った只見の人々。飯塚さんは、背景には八十里越が結ぶ只見と越後との深い関係があったと指摘する。「古くから物流や、結婚など人の交流もあり親近感があった。さらに、この地域の人々は越後で戦った」

国境を農兵が守備した南山では、八十里越の守りを固めた「山内(やまのうち)隊」に只見の人々も加わった。

隊を指揮した山内大学は、南山の西北部の伊北郷・金山谷(只見、金山両町ほか)を16世紀末まで治めた領主の子孫だ。農兵隊には、同地で帰農した山内家の家臣の子孫が率先して参加した。飯塚さんは「山内隊は農兵とはいっても、元は侍。戦いで高まった『先祖が開いた土地を自分たちで守る』という誇りは、その後『地域を全員で守る』という自治意識につながっていった」と解説する。

「只見町史」によると、4月17日、山内隊は越後に向け、八十里越の会津側の入り口、叶津を出発した。越後には会津藩が支配する土地が多く、山内隊はこうした「飛び地」を守り、新政府軍の会津進攻を食い止めるため魚沼方面などで戦った。

飯塚さんによると、山内隊は7月末まで越後戦線に加わった。「一緒に戦うことで連帯感が生まれたはず。その戦地から同志ともいうべき長岡藩士らが敗れてやってきた。通り掛かりの人とは違う。世話をしないわけにはいかなかった」と先人の思いを代弁する。

◆「討薩檄」で士気高める

北越戦争中の6月、奥羽越列藩同盟の中心だった米沢藩の藩士、雲井龍雄は越後出陣中、薩摩藩の横暴を痛烈に批判する「討薩檄(とうさつのげき)」を起草した。長岡藩の河井継之助や会津藩の佐川官兵衛の同意を得て諸藩に伝えた。同盟軍は対抗する意義を確認して士気を高めた。

幼い天皇を利用した薩摩藩の悪政や残虐性を列挙。戊辰戦争は「錦旗を利用して策謀で幕府を朝敵に陥れた」と訴え「罪を問わなくてはならない」と繰り返す。同盟以外の諸藩にも協力を呼び掛けた。長州藩士宛ての雲井の書状草稿では、檄文を新政府軍の諸藩に伝えてほしいと説得する。檄文は味方を鼓舞するだけでなく、薩長の離間工作の一つだったとみられる。

「薩摩を倒し、人々を塗炭から救おう。諸藩は勇気ある決断を」と呼び掛けた。言葉通り雲井は討薩檄の起草後、会津を経て上野(こうずけ)(現在の群馬県)で兵を集めるなど奔走した。しかし、明治3年に士族救済活動が明治政府から反政府活動とみなされ処刑された。数えで27歳だった。