【維新再考・時代の落日】会津編8 籠城1カ月、苦渋の降伏

会津藩は1868(慶応4)年8月23日、新政府軍によって鶴ケ城を急襲された。籠城戦を選んで反撃を繰り広げていくが、新政府軍の包囲が拡大し、9月中旬には鶴ケ城は完全に孤立、9月22日に降伏・開城した。約1カ月の籠城戦の末、苦渋の降伏に至る経緯を追い、会津編を締めくくる。(日付は旧暦)

死傷者が相次ぎ、物資も欠乏する中、会津藩は籠城を続けた。新政府軍は9月14日から総攻撃を仕掛けた。朝から日が暮れるまで砲撃を浴び、弾丸が雨あられのように降り注いだ。城内にいた女性が残した記録「籠城中の思ひ出」では、飛んできた弾丸で母親が目の前で即死したが「悲しいとも思わなかった。立派な死に際だけ考えた」(意訳)という。精神的にも極限状態だったのだろう。

会津藩を取り巻く情勢は厳しい。奥羽越列藩同盟の盟主である仙台、米沢両藩が相次いで降伏し、あろうことか米沢藩は進攻してきた。同盟を結ぶ庄内藩も9月中旬に降伏を決めた。特に9月15日は仁和寺宮嘉彰(にんなじのみやよしあき)親王が錦旗を奉じて越後から現在の会津坂下町に進軍した。これで新政府軍を「官軍」と認めざるを得なくなった。「会津若松市史」は仁和寺宮の進軍について、会津藩に大きな動揺が生じ「自らの立場を立て直す大義名分を失った」と指摘する。

まさに「孤立無援」となった会津藩は、米沢藩から降伏を勧められる。米沢藩主上杉斉憲(なりのり)から、政務に当たっていた前藩主松平容保(かたもり)への書状では「新政府軍と戦った理由は薩摩・長州両藩の私兵に抗(あらが)うためだが、薩長軍は天皇の兵だった。天皇に歯向かう意思はないため降伏した。会津藩も開城することを望む」と諭した。

話はそれるが、米沢城下で自決した会津藩士の堀粂之助を忘れてはならない。援軍要請の命令を受けた堀は9月3日、米沢藩家老と面会するが、すでに降伏が決定しており応じてもらえなかった。堀は使命を果たせず申し訳ないと9月5日に自刃した。辞世の句は「神かけて 誓いしことの かなわねば ふたたび家路 思わざりけり」と無念がにじむ。神奈川県鎌倉市に住む堀家の子孫の堀英彦さん(66)は「会津武士の名誉を守り、潔く死を選んだ先祖が誇り」と先祖の思いをかみしめた。

◆無念の思い「泣血氈(きゅうけつせん)」

会津藩の降伏の経緯を「会津戊辰戦史」などでみていく。会津藩は9月15日ごろに米沢藩から仁和寺宮の進軍を知らされた。重臣会議で錦旗に敵対することはできないと降伏を決意。籠城戦突入から20日以上過ぎて降伏の動きが始まった。米沢藩を通じて新政府軍への仲介を依頼し、9月19日以降に重臣の手代木直右衛門と秋月悌次郎らが土佐藩陣営などに意向を伝え、降伏の話し合いを進めた。

依然として徹底抗戦を叫ぶ藩士は多かった。容保は城内の藩士に「自分一人のために多くの人々が苦しむのは忍びがたい」と決意を示した。藩士らもやむなく降伏に同意したが、納得できない藩士は自決した。21日夜に「降参」と書いた白旗を作ることになったが、白布は包帯に使ってなく、布を集めて縫い合わせた。準備に取り掛かった婦女子だが、悔し泣きで、なかなか作業が進まなかった。

降参の白旗は22日午前10時に立てられた。開城式は正午、現在の裁判所近くの路上で始まり、容保が新政府軍の軍監中村半次郎(後の桐野利秋)に降伏謝罪文を提出した。会場には緋色(ひいろ)の毛氈(もうせん)(フェルト状の敷物)が敷かれていたが、後に藩士たちは「この日の無念を忘れないように」とこれを分け合い、今は「泣血氈(きゅうけつせん)」と呼ばれる。

容保は重臣らに別れを告げ、戦死者を安置した二の丸の空井戸と仮墓地に香花を手向けた。重臣らが嗚咽(おえつ)を上げる中、容保は謹慎のため妙国寺(市内一箕町)に向かった。土佐藩兵の記録「宮地團四郎日記」では移送の様子が「実に目も当てられない光景」と同情的にみる。戊辰戦争で最も過酷な会津戦争はこうして終幕した。

降伏後、新政府では会津藩と容保らの処分の審議を進めた。倒幕派の公家や長州藩士らは極刑や死罪を求めたが、松平春嶽(福井藩主)が寛大な処置を主張。結果、容保は死刑を免れるが、会津藩領は没収された。藩士も東京や越後などに幽閉され、戦争責任を取って家老萱野権兵衛が切腹した。

会津松平家14代当主の松平保久(もりひさ)さん(64)は開城式に臨む容保の心情を「孝明天皇から絶大な信頼を得ていた自分が賊軍になるとは。じくじたる思いだったろう」と想像する。明治になって兄の徳川慶勝(よしかつ)から尾張徳川家の相続を打診されたが容保は「会津を捨てて他家を相続できない」と断った。保久さんは「(容保は)終生、会津と命運を共にした。愚直に生き抜いた会津の先人の生きざまは誇りだ」と話す。

◆勢津子さま成婚、汚名晴らす

会津藩の降伏から60年後、会津を苦しめてきた「朝敵」「賊軍」の汚名をそそぎ、人々に希望を与える出来事があった。昭和天皇の弟の秩父宮と、幕末の会津藩主松平容保の孫に当たる勢津子さまのご成婚だ。

婚約発表後、勢津子さまが1928(昭和3)年7月に会津を訪問されると、大勢の市民が出迎え、お祝いムードにわいた。

勢津子さまのおいの松平恒忠さん(81)は「会津は戊辰戦争の苦しみを引きずっていた。賊軍とされた会津から皇室に入ることは大きな喜びだったろう」と語った。

東北大専門研究員の友田昌宏さん(41)によると、東北地方では明治以降も藩の意識は根強く残り、戊辰戦争の汚名をそそぐ意識が働き、藩主家を中心に考える傾向にあった。「会津松平家出身の勢津子さまの存在は人々をよっぽど勇気づけたはず」と推察する。