【維新再考・明日への伝言】現代編1 「薩長への遺恨」今も?

 

会津弔霊義会が毎年春と秋、飯盛山の白虎隊士墓前で行う式典での剣舞奉納。剣舞は会津高剣舞委員会が務める

戊辰戦争、明治政府の成立から150年の今年、戦没者慰霊祭など関連事業が、全国各地で行われた。その過程で、この節目を「戊辰150年」ととらえる東北など「敗者」の地域と、「維新150年」ととらえる「勝者」側との違いが改めて見えた。両者の「違い」を、「薩長への遺恨」を抱えるともいわれる「会津の気持ち」を中心に考える。

◆会津の気持ち

「会津の人は、本当に今でも、薩長(鹿児島、山口)の人を憎んでいるのですか」。青森県むつ市で出会った男性(49)が、会話の途中、尋ねてきた。

同市は、戊辰戦争の後、旧会津藩士ら約1万7000人が難民のように移り住んだ斗南(となみ)藩の一部に当たる。移住した人々の子孫らが現在も生活し、同市と会津若松市の間では交流事業も行われている。

そんな土地柄だけに、会津と直接ゆかりはないという男性も、さまざまな話題を見聞きする中で、現在も会津と山口、鹿児島などとの間に「しこり」「わだかまり」があるといわれるのを知った。そして本当に、しこりは存在するのか、と言うのだ。

そんな、しこりが浮かび上がった出来事が約30年前にあった。

戊辰戦争120年を翌年に控えた1987(昭和62)年、この節目に、会津若松市と、長州藩の拠点だった山口県萩市との間で、旅館・ホテル業界を中心に、友好交流を進める取り組みが始まった。

しかし「最初は市も加わる予定だったが、その年、会津若松で市長選があり、新しい市長の考え方が違うため行政レベルで友好交流は難しいということになった」と、萩商工会議所の古見洋二専務理事は当時を振り返る。

結局88年、両市の商工会議所など民間レベルで、友好交流の申し合わせが成立。会津若松市の中合会津店で萩の物産展が開催され、若松からも商議所の会員らが萩を視察に訪れた。

古見専務は「友好関係にある商議所同士でも、会員には積極的な人と消極的な人がいる。今も民間での交流はあるが、それぞれの立場を考え、尊重していかなければ、ということが前提にある」と両者の微妙な距離感を語る。

この、しこりについて会津の人々はどうとらえているのか。意見の異なる二人に話を聞いた。

◆語り継ぐ形それぞれ

会津若松市の歴史研究家、野口信一さん(69)は「『会津の怨念』は、50年ほど前、急激にクローズアップされ、拡散してきたもの」と話す。

野口さんは、同市の会津図書館長を務め、市史編さんも1997年から定年退職まで担当した。その間、多くの資料を調べ気付いたのが「昭和30年代の終わりごろから、戊辰戦争での『会津の悲劇』についてつづった文書が目立つようになり、関係する本も続々と刊行された」ことだった。

逆に「昭和30年以前は(公人の発言などに薩長に対する)恨みがましい文言は出てこない。戊辰戦争から70年(1937年)、90年に若松で行われた慰霊祭も、東西両軍殉難者を等しく弔い、90年の式典には山口県知事も参列している」と言う。

この怨念の元になった最大の要因を、新政府が会津戦争で亡くなった会津の人々の埋葬を長期間許さなかった「遺体埋葬禁止令」だと、野口さんは言う。そして、昭和40年代ごろから全国的に、勝者を正義とする歴史ばかりが語られる風潮が薄れ、負けた側の歴史研究が進められたことなどを背景に、怨念も拡散したと推察する。

さらに野口さんは、遺体埋葬禁止令についても存在を否定する。昨年出版された野口さんの著書「会津戊辰戦死者埋葬の虚と実」によると、新政府側は会津戦争終結の10日後に、埋葬通達を出し着手、約570人の遺体が城下の約60カ所に葬られた。その4カ月後、この遺体をまとめて埋葬すること(改葬)が決まったが、改葬先が罪人塚で、作業には被差別民が当たることに旧藩士らが反発し、寺への通常の改葬を新政府側に求め談判を繰り返した。この新説の根拠は、若松城天守閣郷土博物館に寄贈された資料。野口さんは、改葬を巡る経緯が「埋葬禁止令」説を生み出したと考える。

野口さんは「歴史の話を聞くと、悲劇的な部分が頭に残りやすい。歴史は、耳学問ではなく自ら学ぶ姿勢が必要」と話す。

もう一人の人物は、名刺を出し「裏を見てください」といたずらっぽく言った。「公益財団法人会津弔霊義会理事長 芳賀公平」と書かれた裏には「大正六(1917)年、戊辰の役における旧会津藩戦死者の霊を、祭祀(さいし)することを目的に、設立されました」。何の団体かと思われるのでみんなに読んでもらうのだと芳賀理事長は言う。

同法人は、歴史を語り継ぎ、犠牲者を慰霊してきた旧藩士や女性たちが高齢化する中、その営みを未来永劫(えいごう)続けるためにと旧藩士の町野主水らが発起人となりつくられた。以来100年余り、毎年春と秋、飯盛山の白虎隊士墓前など会津若松市内3カ所で慰霊顕彰の式典を続けている。

その代表に「しこり」についてどう考えるか率直にぶつけた。

芳賀理事長は「理事、評議員らの考えはそれぞれ」と断りながら「(薩長の人々と)仲良くするのは当然いい。しかし友好都市調印など特別なことを行う必要はないと思う。私たちは150年前亡くなった人々を慰霊する団体。当時の人々の気持ちは一体どうだろうと考えてしまう」と静かに語った。

遺体埋葬禁止令の存在を否定する新説には「さまざまな考えがある。時間が解決するだろう」と話し「今、伝えたいのは先人たちの倫理観や教育。道理にかなったことを当たり前のこととして行うという会津藩士の精神性を継承したい」と力を込めた。

別れ際、芳賀理事長が「昨年出しました」と同法人の100年誌を手渡してくれた。読むと、野口さんが発表した新政府側の遺体埋葬通達や改葬も記されていた。考え方はさまざま。しかし、150年前の歴史と気持ちを語り継ぐのが会津―という示唆だろうかと考えた。