【維新再考】浜通り編(下) 奮戦の末に相馬藩降伏

1868(慶応4)年7~8月。新政府軍の攻勢に各地で同盟軍側には降伏する藩が現れた。降伏した藩の兵は、新政府軍に編入され味方から「裏切り者」の汚名を着せられもした。その一つ、相馬藩は、磐城平の激戦で奮戦しながら、なぜ苦渋の選択をしなければならなかったのか。相馬藩史に詳しい相馬郷土研究会の会員とともに、磐城平の戦い以降の浜通りの戦いをたどりながら、同藩の決断について考えた。(日付は旧暦。相馬中村藩は相馬藩に統一)

戊辰戦争で戦死した相馬藩士らをまつる剣社。相馬中村城本丸跡で相馬神社に寄り添うように立つ

◆国境破られ同盟崩壊

浜通りの戊辰戦争では相馬藩兵の奮戦が目立つ。7月13日の磐城平城攻防では、藩主名代・相馬将監(しょうげん)率いる精鋭部隊が城西側の六間門を死守した上、他藩の部隊が引き揚げる中、最後まで城にとどまった。城からの撤退では、しんがりを務めたという。

しかし約3週間後の8月4日、相馬藩は一転して降伏(受諾は同6日)。その後は新政府軍の一員として仙台藩兵と戦った。

「だから今でも仙台の人に『相馬は裏切り者』と言われる」。藤原一良代表(77)ら相馬郷土研究会の会員らは苦笑しながら「しかし、それは相馬中村城下や領内に戦火を広げないための決断だった」と話す。

「補訂 戊辰役戦史」(大山柏著)などによると平城落城後、新政府軍が北上し始めた7月23日以降、相馬、仙台、米沢各藩などの同盟軍は、徐々に兵力を増す敵に各地で敗戦を重ねた。

26日は相馬将監の部隊などが木戸(楢葉町)を出撃、広野の敵陣を攻めたが敗れ、将監も戦死。28日には夜ノ森や上手岡(以上富岡町)などの戦闘でも敗れ、新政府軍の相馬領内、熊ノ町(大熊町)周辺への進攻を許した。

敵国境突破の報は相馬藩首脳に衝撃を与えた。29日までに前藩主相馬充胤(みちたね)が降伏の検討を命じ、重臣らが原町の本陣にいた藩主相馬秊胤(としたね)の元で協議。降伏を打診する書状を密使の僧侶らに託し敵陣へ送った。

しかし、この「背盟」の動きは、密偵によって味方に漏れていたようだ。仙台、米沢藩兵らは28日の敗戦直後、前線から相馬兵を残し撤退し、相馬藩をけん制するため相馬中村周辺に駐留した。

この「同盟崩壊」で、和平工作など知らない前線の相馬兵は、29日と翌8月1日、浪江の防衛戦を単独で戦った。29日は勝利したが、翌日は大敗し主力部隊が瓦解(がかい)した。こうして孤立し兵力も失った相馬藩は、滅亡か、降伏しか道はなくなったのだった。

相馬郷土研究会の猪狩正志副代表は「小藩は生き残るため必死だった。中でも相馬藩の対応、外交は今も参考になる」と言う。

相馬藩は6万石。北隣の大藩仙台62万石の10分の1だが、鎌倉時代初期に浜通り北部を領有して以来約700年間、外交を駆使し争いの中を生き抜いてきた。戦国時代には伊達氏の脅威に対し、常陸の佐竹氏と同盟。江戸時代には幕府と信頼関係を結び、譜代大名に準ずる譜代並(願(ねがい)譜代)に取り立てられた。藩主同士の交流が断たれていた仙台藩とも、藩同士は西洋砲術の訓練などで交流があったという。

幕末にも生き残り外交が展開された。仙台藩が呼び掛けた奥羽列藩同盟結成にはいち早く参加。同時に新政府側についた秋田藩(藩主佐竹家と相馬家が親戚)からも情報を得ていたとみられる。

和平工作もしたたかに見えるが、研究会の面々は「戦争になると腹をくくり、主力が前線で戦った。降伏の機会をうかがっていたわけではない」と言う。例えば相馬藩の武器購入計画。同藩は当時武器商人スネル兄弟の弟エドワルドに3万両分の武器を発注。前金9千両を支払った。結局武器は届かなかったが、同藩の郷土防衛への決意がうかがえる。ただ、郷土に滅亡が迫った状況となっては、降伏しか道はなかった。

こうして生き延びた相馬藩だが苦悩は続いた。8月7日から10月1日まで相馬領は新政府軍が占領。同藩はこの間、兵士延べ16万人の食料の調達、資金、物資の負担を強いられ、領内全体が疲弊した。新政府軍に編入された相馬兵も多くが犠牲になった。研究会の渡辺義夫さんは言う。「3万両の武器は届かなくてよかった。届いていたら戦争が長引き、もっと犠牲と被害が増えていただろう」

◆浪江に残る激戦の記憶

相馬藩降伏を決定づけたといわれる浪江の戦い。その跡をたどるため、相馬郷土研究会の藤原一良代表と浪江町へ向かった。

浪江宿の東に位置する幾世橋地区は、第5代相馬藩主相馬昌胤(まさたね)などが隠居後移り住み、武家の集落が形成された。高台の大聖寺(だいしょうじ)には相馬家御廟所(ごびょうしょ)があり、その近くで藤原代表が「これが脇本喜兵衛正明の墓」と墓石を指さした。

脇本は藩の用人。浪江の戦いでは部隊を指揮し、高瀬川を越え進攻する新政府軍と戦ったが、大敗した8月1日、敵に捕らえられ処刑された。脇本は足が悪く最後に後退したらしい。

藤原代表は「敵兵に両腕を切り落とされた脇本は『なまくら刀では首は斬れない。俺の刀を使え』と言ったという。ばらばらの遺体が川に捨てられたが、脇本を知る人が遺体を集め竹串でつなげ葬った」と凄惨(せいさん)な挿話を語った。

さらに脇本が捕まった幾世橋字辻を訪れた。同所の森一夫さん(62)は自宅敷地の西の端で「この辺の木掛け小屋(稲を干す木を納める小屋)に潜んでいるところを捕まったと父が話していた。高瀬の方から敵が攻めてきたとも言っていた」と戦争の記憶を語った。

※「戊辰戦争」「明治維新」を新たな視点で問い直す長期大型連載「維新再考」は、引き続き福島民友新聞で毎週月曜日に掲載します。どうぞお読み下さい。

連載「維新再考」の保存版は、第1部「識者に聞く」のうち、「半藤一利さん編」(全7回)、「中村彰彦さん編」(全7回)、「磯田道史さん編」(全3回)、「森田健司さん編」(全7回)の4編があります。福島民友販売店で無料で提供しています。問い合わせは福島民友新聞社販売局(電話024・523・1472)へ。