【維新再考・動乱の舞台】京都編6 兵器に差なく一進一退

「維新再考」第2部・京都編では最初に戊辰戦争の端緒「鳥羽・伏見の戦い」の地を訪れた。改めて資料を読むと、大軍の旧幕府軍が兵器で劣り一方的に敗れたとする通説に対し、実際は旧幕府軍も最新兵器で善戦したという記述を見つけた。いざ再び、鳥羽・伏見へ。

砲弾が突き抜けた妙教寺の壁の穴(中央)

◆伏兵の会津陣地奪還

戊辰戦争の開戦地、洛南の鳥羽(京都市南部)を歩くと、江戸時代中期の俳人・与謝蕪村の句が浮かぶ。

「鳥羽殿へ 五六騎急ぐ 野分(のわき)かな」

野分(台風)が吹き荒れる中、騎馬武者が鳥羽殿(開戦地近くにあった上皇の離宮)に急ぐ。あくまで平安時代の空想を詠んでいるのだが、風雲急を告げる幕末を予言したかのように情景が重なる。

「政変を起こし、御所を兵で囲み、江戸で強盗を行った。奸臣(かんしん)(国を傾けた臣下)に誅戮(ちゅうりく)(罪ある者を殺す)を加える」

新政府の中心にいる薩摩藩を弾劾した「討薩表(とうさつのひょう)」の一文(意訳)で、徳川慶喜(よしのぶ)が起草に関わったとされる。「薩摩藩が諸悪の根源」と朝廷に訴え、薩摩藩の優位性を崩し、慶喜の復活を目指す狙いだった。旧幕府側の激しい怒りがうかがえる。

旧幕府側は鳥羽と伏見の二手に軍を展開した。慶応4年1月3日(1868年1月27日)、討薩表を朝廷に届ける途中、鳥羽で薩摩藩兵らと通行を巡って押し問答を続け、夕方に”鳥羽殿”近くで戦闘に入った。「京都守護職始末」(元会津藩家老・山川浩著)は「伏見にいた会津藩兵も入京を巡って薩摩藩兵と言い争う中、聞こえてきた砲声を機に戦闘に陥った」と伝える。

注目は両軍の作戦の違いだ。旧幕府軍は約1万5千人の大軍で威嚇する政治交渉に出た。一方、新政府軍は時間稼ぎをして戦闘準備を進めた。旧幕府軍の桑名藩士の記録は、不意打ちを受けた先頭の自軍の兵について「銃を所持せず装弾もしてない。右往左往し、すぐ死ぬ者が出た」(意訳)と記す。出鼻をくじかれた旧幕府軍は態勢を整え、鳥羽と伏見で戦闘を続けた。

「旧幕府軍の銃器の水準が劣っていたという説は誤りだ。旧幕府軍の伝習隊(幕府陸軍)は当時最新鋭の元込(もとごめ)銃『シャスポー銃』を使用していた」と語るのは作家・文芸評論家の野口武彦さん(80)=兵庫県、神戸大名誉教授。伝習隊はフランス軍事顧問団から指導を受けた西洋式軍隊で、幕府はシャスポー銃をフランスから購入していた。

元込銃は弾薬を銃身の後部、先込(さきごめ)銃は銃口から装填(そうてん)する。先込銃を1発撃つうちに元込銃は7発撃てるほど充填速度が大きく違う。薩摩、長州両藩は先込銃しかなく、軍備の洋式化が遅れた会津藩などを差し引いても「両軍に兵器の差はなかった」という分析だ。

開戦地から鳥羽街道を南下し淀に向かう。旧幕府軍は米俵や酒だるで胸壁(俵陣地、酒樽陣地)を築いて必死に反撃した。街道沿いに幕末の面影を探した。

「銃弾が雨のように寺に集まり、身を置くところがなかった。大砲が雷のように勢いよく天地に響いた」(意訳)

開戦翌日の4日には淀周辺(京都市伏見区)で激戦が始まった。宇治川の北、納所(のうそ)(伏見区納所町)にある妙教寺の住職が状況を記した。本堂には不発弾の砲弾が壁を破り、柱を貫いた生々しい痕跡が今も残る。

鳥羽街道を追撃する新政府軍に旧幕府軍は伏兵突撃し大損害を与え、陣地を奪還した。伏兵として活躍したのは会津藩だ。

旧幕府軍の戦況報告では「槍(やり)で大いに戦い(中略)大声で鬨(かちどき)をあげて追い打ちし大勝利した」とある。しかし5日以降は淀付近で「錦旗」が掲げられ、淀藩や津藩の裏切りに遭って総崩れとなっていく。

妙教寺は毎年、旧幕府軍戦没者の慰霊を続けている。松井遠妙(おんみょう)住職(69)は「これからも弔いを続けていきたい」と語る。夕暮れの境内で、旧幕府軍戦死者の招魂碑に手を合わせた。

※「戊辰戦争」「明治維新」を新たな視点で問い直す長期大型連載「維新再考」は、引き続き福島民友新聞で毎週月曜日に掲載します。どうぞお読み下さい。

連載「維新再考」の保存版は、第1部「識者に聞く」のうち、「半藤一利さん編」(全7回)、「中村彰彦さん編」(全7回)、「磯田道史さん編」(全3回)、「森田健司さん編」(全7回)の4編があります。福島民友販売店で無料で提供しています。問い合わせは福島民友新聞社販売局(電話024・523・1472)へ。