【維新再考・信義の抗戦】二本松編1 二本松攻め、三春先導

戊辰戦争で二本松藩は、玉砕とも言えるほどの犠牲を出した。新政府軍が白河を占領し、太平洋側からの進攻も続けていた1868(慶応4)年7月のことだ。「維新再考」第6部は、会津や仙台に続く奥州街道の要衝にあった二本松藩が壊滅へ至る激戦をたどる。初回は、奥羽越列藩同盟軍から離反する藩が出る中、二本松藩がなぜ抵抗を強めたのか、離反した三春藩との確執とを合わせ考える。(日付は旧暦)

霞ケ城の箕輪門前に、たたずむ根本さん。二本松藩は少年兵から老兵まで出陣する総力戦を強いられ、落城した=二本松市郭内

「負け戦と悟っていながら徹底抗戦を貫いた。藩の消滅、甚大な被害が及ぶことを覚悟した上で『城を枕に討ち死に』することを決め、死力を尽くした」。元二本松市文化課長の根本豊徳さん(66)は、二本松藩丹羽家10万石の居城だった同市の霞ケ城を望み、言葉に力を込めた。

新政府軍は68年7月、現在の白河市周辺やいわき市周辺での戦闘に勝利し、浜通りと中通りの二手に分かれ北上した。目的は会津、仙台への攻撃を視野に入れた足場固めだ。

中通りの新政府軍が進軍すると、奥羽越列藩同盟軍の結束が揺らいだ。小藩の守山藩(郡山市など)と三春藩(三春町など)が相次いで降伏した。新政府軍は、さらに三春藩兵らの先導で二本松藩領へ迫った。

新政府軍が二本松への総攻撃に出たのは、三春藩の「無血開城」から2日後の7月29日だった。城下へ攻め入る新政府軍は約7000人。対する二本松藩の守備は応援兵を含めても約1000人。「これには足軽や農兵、少年兵、老兵が含まれ、主力と呼べるのは300人程度。武器も多くが火縄銃で、大砲も飛距離が短い。兵力差が大きすぎて、多くの戦死者を出した」と根本さんは話す。

では、明らかに劣勢の二本松藩は、なぜ頑強に抵抗したのか。藩主丹羽家は関ケ原の戦いの敗戦で改易され、後に徳川家によって再興を許された。そのため外様大名だが、幕府に恩義を尽くす気風が強かった。また戦火が目前に迫る中、霞ケ城で抗戦か降伏かを決める軍議の直前「寝返りともいえる三春藩の降伏も影響した」と根本さんは指摘する。

「二本松藩史」(1926年発行)などに軍議の逸話が残る。戦火が迫る7月27日夜、重臣による議論が降伏に傾く中、家老の丹羽一学が発言した。三春藩の降伏を例に「信に背いたら人は何というか」と嘆き、「降伏して藩を存続させても東北諸藩が敵に回れば城を保てない。降伏しても滅び、降伏しなくても滅ぶのならば信を守って滅びよう」と訴えた。

根本さんは「戦わず降伏するのは武士の恥。この時、二本松藩は降伏していたら、新政府軍の先鋒(せんぽう)となって会津藩に進攻していた」と推察し「同盟のために信義を貫いた二本松藩の武士道精神は評価されるべきだ」と話す。

◆新しさ受け入れ生きる

二本松藩は、霞ケ城が落城した1868(慶応4)年7月29日の戦いで208人が戦死。戊辰戦争全体では337人の犠牲を出した(「二本松藩史」など)。元二本松市文化課長の根本豊徳さんは「二本松藩の正式な藩士(50石取り以上)は約350人。ほぼ同じ人数が戦死した壮絶な戦いだった」と言う。

二本松藩兵は元々少なく、農兵などを加えても総数は約2000人。7月下旬は、新政府軍が占領し拠点とした白河の抑えに当たるため、主力兵の多くを領内の郡山などに派兵し警備を強化した。

そんな城下が手薄なところに、降伏した三春藩が「道案内」をして新政府軍が攻め寄せた。そのため7月29日の戦いには主力兵の帰還が整わず、急きょ12~17歳の少年兵約60人(後に二本松少年隊と呼ばれる)が出陣し戦死者を出した。

二本松藩は交通の要衝。北に向かえば奥羽越列藩同盟の盟主・仙台藩、西に向かえば「朝敵」とされた会津藩があった。新政府軍にとって二本松藩領は通り道でしかなかったともいえる。「二本松藩がもっと情勢を分析できれば、徹底抗戦ではない展開もあったのではないか」と根本さんは考える。

また「二本松では現在も、薩摩や長州よりも三春に対する怨念が強い」と根本さんは言う。二本松では昭和中期まで「三春から嫁をもらうな」「三春には嫁にいくな」という話があったといい、今でも二本松藩の敗因について「三春藩が突然、寝返ったせいだ」とよく言われる。

だが実は、二本松藩は三春藩の寝返りを事前に察知し、三春藩領に接する本宮市方面の守備を固めていた。

「新政府軍と戦っても勝てるわけがないと、藩の首脳も分かっていた」。根本さんは二本松藩の悲惨な歴史を踏まえると、戦争を回避する道もあったと言い切る。加えて三春藩批判ではなく、三春の立場を理解することも重要だと言う。「戊辰150年の節目を契機に、当時の考え方を踏まえつつ、多くの人々が新しい歴史検証の視点を持つようになればいい」

◆三春救った開城判断

三春藩秋田家5万石とは、どんな存在だったのだろう。列藩同盟に加わっていた同藩は7月26日、新政府軍に降伏し、翌27日には領内を戦禍にさらすことなく三春城を開城した。

「三春町史」などを見ると、三春藩上層部は早くから勤皇派で、京に使者を送って新政府に恭順の姿勢を見せていた。同盟軍としての「二足のわらじ」を履きつつ、「三春は新政府軍に一発も鉄砲を撃っていない」と弁明し「早く進軍して救助してほしい」との嘆願書も提出した。そして新政府軍と戦闘が始まると戦線を離脱する行動が同盟軍から怪しまれる一因ともなっていた。

三春藩と新政府軍の接触は、新政府軍が優勢になった7月から始まった。三春藩の下級武士の河野広中(後の自由民権運動の指導者)ら有志が棚倉城下を訪れ、新政府軍の板垣退助(土佐藩士)らと接触するようになった。河野らは土佐藩の断金隊に入隊し、軍用地図の製作に協力している。さらに三春藩重臣を説得して藩論をまとめ、同月26日に降伏状を提出し、新政府軍を迎え入れた。

三春藩は一方で、二本松、福島両藩などに使者を派遣し、同盟軍も装っていた。ただし、三春藩の裏切りが判明したことで、この使者は三春へ帰る途中の27日、二本松城下などで殺害されている。

1937(昭和12)年、三春出身の陸海軍将校たちが三春城本丸跡にこの時殺された使者を慰霊する「三春藩烈士之碑」を建立した。戊辰70年の節目を記念し、三春藩の考えを主張している。

「最近の話だが、三春町出身者が二本松市の人に『二本松少年隊は三春藩のせいで死んだんだ』とからかわれた。言った本人は冗談だったのだろうが、この手の話は今でもよくある」

町歴史民俗資料館友の会長の佐久間真さん(79)は、現代も二本松と三春に埋められない溝があると言う。ちなみに佐久間さんの曽祖父は三春藩士で、新政府軍とともに二本松や会津に出陣していた。

「味方と思っていた三春藩が突然、新政府軍を案内して攻め込んでくる。二本松の人にとってみれば許せないことだった」と言う佐久間さん。一方で「三春のような小藩の立場も分かってほしい。武士には領民の命や生活を守る使命もある。三春が生き残るためには被害を少なくしなければならなかった」と訴える。

同盟軍と新政府軍への「二枚舌外交」についても「恭順を表明する時期を間違えば、逆に同盟軍から攻められてしまう。新政府軍が三春に迫るぎりぎりのタイミングしかなかったのでは」と考える。結果として、新政府側から藩士の道案内などの出陣が命じられ、資金や食料の提供といった負担もあったが、領民を死なせず、町も焼かれなかった。「三春を守ってくれた先人に感謝している。降伏・開城の判断は正しかった」

「会津猪(いのしし) 仙台むじな 三春狐(きつね)にだまされた―」とは戊辰戦争をきっかけにした有名な戯(ざ)れ歌。これにより明治時代以降、三春という地域自体に「裏切り者」のイメージがつきまとい、三春でも戊辰戦争の話題を語るのをはばかる状態が続いているといわれる。「三春藩烈士之碑」には、こうした「三春の裏切り」のイメージを払拭(ふっしょく)したいとの強い思いが刻まれているという。

一方、三春では明治以降、河野ら先駆的な人物を輩出した。「戊辰戦争が三春の人々の意識を変え、新しい思想や考えを受け入れる転換期になった」

佐久間さんは、戊辰150年を契機に三春の立場について改めて考えたり、先人を誇りに思う世代が増えてほしいと強く願っている。(日付は旧暦)

※「戊辰戦争」「明治維新」を新たな視点で問い直す長期大型連載「維新再考」は、引き続き福島民友新聞で毎週月曜日に掲載します。どうぞお読み下さい。

連載「維新再考」の保存版は、第1部「識者に聞く」のうち、「半藤一利さん編」(全7回)、「中村彰彦さん編」(全7回)、「磯田道史さん編」(全3回)、「森田健司さん編」(全7回)の4編があります。福島民友販売店で無料で提供しています。問い合わせは福島民友新聞社販売局(電話024・523・1472)へ。