【維新再考・信義の抗戦】二本松編3 庶民の暮らしも犠牲に

信義を尽くして落城した二本松藩に焦点を当てる「維新再考」二本松編。第3回は二本松藩の庶民がテーマ。農兵として新政府軍と戦ったり、新政府軍の強奪に遭ったり、戦略のために家を焼かれたりと、武士だけでなく庶民の被害も甚大だった。(日付は旧暦)

二本松藩の戦死者が眠る軍卒合葬塔に手を合わせる登梛さん(右)と岡部さん=本宮市糠沢

二本松藩・霞ケ城が落城する2日前の1868(慶応4)年7月27日未明。同藩領内である現在の本宮市白沢地区(旧白沢村)=注=で、新政府軍の二本松進攻が始まった。二本松と領地を接する三春藩が新政府軍に寝返った翌日のことで、まさに速攻だった。三春藩の兵や領民に道案内された新政府軍の部隊は、藩境に位置する現白沢地区の名主宅や番所の4カ所を連続して急襲した。

「家で休息していた二本松藩兵と先祖は、新政府軍に囲まれて一斉に銃撃された。先祖は逃げて助かったが家は焼かれた」

攻め込まれた糠沢村の名主・登梛(となぎ)家の現当主登梛和男さん(77)=本宮市糠沢字城ノ内=が語る。藩境の戦闘は登梛家周辺が最も激戦となり、現在は「城ノ内古戦場」と呼ばれる。登梛家には弾痕が残る戸板の一部が保管されている。

城ノ内(上ノ内)の戦いを「白沢村史」などを参考にたどる。三春藩の裏切りを予知した二本松藩は、藩境を守るため同藩士・樽井弥五左衛門を隊長とする樽井隊約200人(130人とも)を派遣した。樽井隊は7月9日から登梛家に布陣して付近に胸壁を築くなど防衛準備を整えた。対する新政府軍の主力は板垣退助(土佐藩士)率いる部隊だが、27日に実際に戦ったのは独断で動いた一部の薩摩、土佐両藩兵ら数百人だった。

「大小の砲声が山谷に響き、不意の攻撃に苦戦。(中略)奇襲を察知できなかったのは敵情偵察に大きな欠陥があった」(「二本松藩史」所収の樽井の手記より)。樽井は反省の弁を残したが、二本松藩兵はすぐさま応戦し、中には勇猛に斬り込む藩士もいた。しかし、火力に勝る新政府軍に歯が立たず部隊は壊滅状態。白沢地区の戦闘では、二本松藩の藩士や16~17歳の少年兵、農兵ら約60人(人数は諸説あり)が戦死した。たまたま食料を届けに来た農民の女性「わき」も亡くなっている。

新政府軍の急襲を農兵はどうみたのか。村役人も務めた農兵(白岩村・渡辺園右衛門)の従軍記では、新政府軍の銃撃が「雨が降るごとくで、音に驚いた村人は山に逃げた」とし、銃撃に続く進攻に農兵らは田の中や畦(あぜ)を逃げたが「鉄砲で撃たれ、刀でも討たれた」と記す。

一方、新政府軍側の記録を見ると、別の藩境の松沢村を攻めた土佐藩士の従軍記「宮地團四郎日記」では、宮地らが二本松兵を銃や刀で殺害し、相手は「『堪忍して』と言い、うなって死んだ」と生々しく書き残している。

「戦闘で亡くなった二本松藩兵は地元住民で埋葬した。城ノ内付近には合葬塔や墓が5カ所ある」と登梛さん。地元住民が管理を続けてきたが、50年前の戊辰100年の供養祭を機に「城ノ内古戦場保存会」を設立し、組織的に管理している。近くに住む旧白沢村長の岡部善宜(ぜんぎ)さん(82)も合葬墓を管理する一人。親から「合葬墓近くのイチョウの木の辺りが埋葬地だから絶対に作物を作ってはいけない」と聞かされてきた。二人は「戊辰戦争の歴史を後世に伝えていかなければ」と口をそろえた。

城ノ内周辺には出陣した二本松兵の子孫が訪ねてくる。樽井の子孫の樽井盛雄さん(57)=郡山市=もその一人で、地元住民の手厚い供養に感謝している。樽井さんは、先祖からの教えとして三春藩の寝返りを引き合いに「裏切る人になるな」と教え込まれた。「戊辰戦争で二本松藩は朝敵となったが、義を通して名を残した。命を懸けた生き方が誇り」と語った。

◆家焼かれ分捕り被害

新政府軍は城ノ内の戦いを制した後、奥州街道と会津街道の分岐点である交通の要衝「本宮宿」(JR本宮駅がある現在の本宮市中心部)を目指し、道中の民家約30軒に火を放ちながら北西に約4キロ進軍した。一方、この時ではないが奥羽越列藩同盟軍も戦略のため各地の民家を焼き払っている。本宮宿の商人の日記「閑窓私記」では、会津兵が本宮宿を8月13日に放火したと記している。どちらにしても庶民の生活は顧みられなかった。

本宮宿の戦闘はどうか。「本宮町史」によると、7月27日は阿武隈川を挟んだ攻防戦などを経て新政府軍が本宮宿を占領。翌28日は郡山方面から二本松に引き揚げる二本松、仙台両藩兵らが本宮宿奪還に向け戦闘を仕掛けるが敗走した。現在の本宮小脇の高台にある安達太良神社の柱には当時の弾痕が残る。27日の戦闘で土佐藩断金隊長・美正貫一郎(三春藩降伏を調整)が戦死し、今も旧奥州街道脇の薬師堂境内に墓碑がある。

占領には勝者による強奪、いわゆる「分捕り」が付きものだった。二本松藩側の史料「奥羽騒乱日誌」(「本宮町史資料双書」に所収)は、霞ケ城が落城後、新政府軍が「城下の居宅や土蔵を打ち壊し、箪笥(たんす)の錠前を破り、第一に金銭に目をかけ、金目の物をことごとく奪った」と記す。さらに城下の強奪を尽くすと「近在をあさり、遠方まで行った」らしい。さらに大きい家を宿舎に、食べ物を奪い、大酒を飲み、歌を歌って、踊り騒いだようで「分捕り品を山のように積み重ねていた。目も当てられぬありさまだ」と記録している。

霞ケ城の近く、旧奥州街道沿いで製麺業を営む岡田屋製麺工場社長の菅野恒雄さん(72)方=二本松市若宮=は江戸時代、みそ醸造や質屋を営む有力な商家だった。今も残る蔵の扉には、薩摩藩による分捕り被害を示す「薩州二番隊分捕」などと墨で書かれている。菅野さんは、先祖から「新政府軍が城下に攻め寄せた時、先祖が蔵から荷物を運び出そうとしたが見つかり、新政府軍に全て奪われた。その後、自宅も新政府軍の宿舎として使われた」と聞かされてきたという。「落城後の庶民の苦しみが目に浮かぶ。新政府軍の悪行と、先祖の苦労の歴史を語り継いでいきたい」と語った。

(注)本宮市白沢地区は江戸時代、二本松藩領の東南部にあり三春藩領と接していた。文中の糠沢村、白岩村、松沢村は、いずれも白沢地区内の旧村名で、三春藩との境に位置していた。

※「戊辰戦争」「明治維新」を新たな視点で問い直す長期大型連載「維新再考」は、引き続き福島民友新聞で毎週月曜日に掲載します。どうぞお読み下さい。

連載「維新再考」の保存版は、第1部「識者に聞く」のうち、「半藤一利さん編」(全7回)、「中村彰彦さん編」(全7回)、「磯田道史さん編」(全3回)、「森田健司さん編」(全7回)の4編があります。福島民友販売店で無料で提供しています。問い合わせは福島民友新聞社販売局(電話024・523・1472)へ。