【維新再考・信義の抗戦】二本松編4 朝河貫一、武士道の原点

義を貫いて落城した二本松藩に焦点を当てる「維新再考」の二本松編。1868(慶応4)年7月29日の落城後も、藩士たちは城奪還に向けて懸命に戦った。その後、明治初期の「廃藩置県」で二本松藩が消滅して以降も、旧藩士やその家族は力強く多方面で活躍した。(日付は旧暦)

二本松少年隊の供養塔を見つめる丹羽家18代当主の丹羽長聰さん=二本松市・大隣寺

霞ケ城に攻め込まれた7月29日は壮絶だった。「弾丸が城内に雨のように注いだ。城内は刀や槍(やり)を振るう接戦で、互いに死傷者が多い。丹羽一学(家老、実質的な主導者)は兵を叱咤(しった)激励し力戦した。敵兵が少し退くと城に火が放たれた」(「二本松藩史」の意訳)

同藩史などをみていく。新政府軍が城内に殺到する中、大城代が城に火を放つよう指示し、自らは敵に斬り込み戦死した。丹羽一学ら重臣も城内で自刃した。「奥羽騒乱日誌」では「城中の火がいつまでも巻き上がり天を焦がした」と表現している。この日の二本松藩兵の戦死者は265人(藩士209人、農兵56人)だった。

落城前日、病床にあった藩主の丹羽長国と夫人が米沢に逃れた。重臣が丹羽家を何とか残そうと考えた結果で、負け戦と分かっていたからこその決断だった。夫人は先に出発したが、長国は「我一人生きるのは忍びない。城と共に滅びる」と受け入れなかった。だが、重臣の泣きの説得に応じた。

「国を見捨てた」と長国を批判する人もいる。だが、跡取りがいない丹羽家は落城で断絶する可能性もある。丹羽家18代当主の丹羽長聰(ながとし)さん(74)=東京都=は「長国は後ろ髪をひかれる思いだった」と推察。明治になって東京に移住すると長国は大酒を飲むようになる。「戊辰戦争の責任を感じ、良心の呵責(かしゃく)にさいなまれて酒に頼った。かわいそうな姿だった」と長聰さんは母から聞いた。

◆軍国主義に警告残す

廃藩置県後、旧二本松藩士とその家族は賊軍の汚名を着せられながら安積開拓や教育界、殖産興業などに励んだ。同時に、二本松藩士の武士道精神も受け継がれた。

代表的な人物は世界的な歴史学者の朝河貫一(1873~1948年)だ。立子山小(現在の福島市)校長を務めた元藩士朝河正澄の長男で、正澄から漢籍と古典だけでなく、武士の精神性や二本松藩士の義を学んだといわれる。

正澄は戊辰戦争時、宗形昌武(明治2年に朝河家を継いだ)の名で各地を転戦した。援軍の道案内を地理に精通していないと断った際、上官に「敵を恐れているのか」と問われ、「国家存亡のときにどうしてこの身を惜しむのか」と覚悟を述べた。会津藩から寝返りを疑われた際にも誠実な対応で信頼を得た。霞ケ城落城後も戦意を失わず農民の身なりに変装して敵情を視察している(朝河貫一博士顕彰協会発行「朝河正澄」)。

文武両道の父を見て育った貫一は23歳で渡米し、ダートマス大やイェール大大学院を修了し大学教員となった。歴史研究で高い評価を受ける一方、戦前の日本の軍国主義に対して批判を強め、平和への警鐘を鳴らし続けた。日露戦争後に刊行した「日本の禍機」で日本は軍国主義に進むべきでないと警告した。結論部分では「日本国民の愛国心は武士道に影響する」とし、武士道の内容を分析している。そして「日本が世界の中で正しい道を歩み、困難と戦い、堂々と進むことで愛国心がさらに高まる」と訴えている。

貫一の武士道には二本松藩が重なって見える。それは、策略と戦争によって政権を奪った新政府のあり方とは対照的なものだ。それゆえ貫一が、軍国主義の根本は明治維新にあった、と考えていたとの指摘もある。新政府軍を指揮して二本松を攻めた板垣退助(土佐藩士)は後に「藩を挙げ全力を尽くした二本松が第一。刀折れ矢尽き、城を枕に倒れるとはこのこと」(「板垣退助君伝」の意訳)と二本松の武士道をたたえるのは何とも皮肉だ。

落城とともに二本松藩の戦いは終幕したと思われがちだ。しかし、二本松藩士は諦めなかった。8月1日には藩主・長国がいる米沢に近い板谷街道・李平(すももだいら)宿(現・福島市)に拠点を構えた。8月17日に仙台、米沢両藩などと協力して複数方向から霞ケ城に向けて進軍した。だが連携がうまく取れず、旧奥州街道の二本柳宿(現・二本松市渋川)周辺で戦うが敗走している。近くに「戦死七人之碑」が残る。

8月20日には現在の大玉村玉井で「山入の戦い」が起きた。会津方面に退却した二本松藩兵や会津藩兵らと、会津攻めに向かう新政府軍の戦いで、激しい銃撃戦を交わすが敗れた。会津藩領への進攻を許す「母成峠の戦い」の前日だった。山入地区の住民は二本松や会津両藩、旧幕府兵の戦死者らを埋葬し「戦死三十一人墓」を建立している。

「山入の戦いが会津戦争に発展していく」と語るのは同村歴史文化クラブ会長の渡辺敬太郎さん(74)。村内には今も「村中の娘を集めて隠し、危害が及ぶのを防いだ」「新政府軍に家が放火された」などの伝承が語り継がれる。渡辺さんは「村人の戊辰戦争の記憶を忘れずに教訓とし、平和の尊さを伝えていきたい」と誓う。

渡辺さんと戦死三十一人墓を訪ねると、偶然にも山入の戦いで戦死した会津藩士の子孫の猪苗代町の原松夫さん(80)ら親戚一同と会った。原さんは「先祖は会津に侵入させまいと必死にここまで来たのだろう」と思案し、「150年たった今も大玉の人々が供養してくれてありがたい」と語った。

二本松藩兵は母成峠でも戦うが、戦死者を出して敗走し、事実上の終戦を迎えた。9月に二本松藩は新政府軍に謝罪・帰順を伝え、藩主・長国は霞ケ城城下の丹羽家菩提寺(ぼだいじ)である大隣寺などで謹慎した。その後、長国の隠居と養子を迎えることで家名が存続し、5万石で藩は復活した。

長聰さんは、少年兵の供養塔などがある同寺を訪れる度に「義に殉じた二本松藩士は『武士の誇り』」と感じる。一方、多くの命を失い、庶民生活に影響が及んだ悲しい歴史に心苦しくなる。「古里のため戦った先人を後世に伝えることが大事だ」と歴史を見つめ、静かに語った。

※「戊辰戦争」「明治維新」を新たな視点で問い直す長期大型連載「維新再考」は、引き続き福島民友新聞で毎週月曜日に掲載します。どうぞお読み下さい。

連載「維新再考」の保存版は、第1部「識者に聞く」のうち、「半藤一利さん編」(全7回)、「中村彰彦さん編」(全7回)、「磯田道史さん編」(全3回)、「森田健司さん編」(全7回)の4編があります。福島民友販売店で無料で提供しています。問い合わせは福島民友新聞社販売局(電話024・523・1472)へ。