【維新再考・特別編】江戸開城、戦線北へ ヤマ場「無血」終結

戊辰戦争から150年。敗者の視点から明治維新を見つめ直す大型連載「維新再考」は次回から、いよいよ白河編に突入する。

激戦となった「白河口の戦い」の火ぶたが切って落とされたのは旧暦慶応4(1868)年閏(うるう)4月20日。戊辰戦争の端緒「鳥羽・伏見の戦い」の開戦(1月3日)から、4カ月半が過ぎていた。この間、戦いの足音は刻々と北上。江戸、関東では歴史が大きなうねりを見せていた。新シリーズを前に、特別編として戊辰戦争前半の戦況をたどった。

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鳥羽・伏見の戦いは将軍徳川慶喜(よしのぶ)の大坂脱出であっけなく幕を閉じた。大将を失った旧幕府軍は「まさかの敗北」を喫して全軍敗走。舞台は江戸へと移った。

新政府は直後に慶喜や会津藩主松平容保(かたもり)らを朝敵とする追討令を発し、1月17日には仙台藩に単独での会津藩征討を命じている。一方、2月には慶喜が上野寛永寺で謹慎し、容保は会津に帰って家督を譲るなど恭順の姿勢を示した。

2月15日、新政府軍約5万の軍勢が東海道、東山道、北陸道の3方向から進軍した。東征大総督に任命された有栖川宮熾仁(たるひと)親王率いる東海道軍が主力で、参謀は薩摩藩の西郷隆盛。一戦もせず3月5日に駿府城(現・静岡市)に入った。沿道の中小の藩はなべて新政府軍になびき、「錦の御旗」の威力と語り継がれる。

同6日の軍議では江戸総攻撃日程が同15日と決まった。

新政府軍が江戸に迫る中、徳川家の陸軍総裁・勝海舟は旧幕臣の山岡鉄舟に西郷宛ての手紙を託す。勝は江戸城を明け渡す条件として、徳川家存続や慶喜の助命、江戸総攻撃中止の要求を考えていた。3月9日に西郷と会談した山岡は、勝と西郷の会談開催を取り付け、条件の下交渉まで行った。

勝と西郷の会談は3月13、14の両日、江戸の薩摩藩邸で行われた。江戸総攻撃は回避され、江戸城の明け渡しが決まった。同時並行で新政府軍の江戸包囲網が完成しつつある緊迫した状況下だった。ドラマでは勝と西郷の2人だけの面会として描かれることが多い。しかし、実際は徳川家の会計総裁・大久保一翁や新政府軍幹部らも同席した。

会談後、西郷は急ぎ京都へと戻り、朝廷の会議に諮った上で江戸総攻撃中止が正式に決まった。江戸に戻った西郷らは4月4日、江戸城に入り、慶喜の助命と水戸謹慎を言い渡した。同11日に江戸城は新政府軍へと引き渡され、同21日に有栖川宮が入城している。

最大のヤマ場を迎えるかにみえた戊辰戦争は、徳川家の本拠が抵抗なく開城されたことで、新政府軍が一気に優勢となった。歴史的な事件だった。旧暦4月11日は新暦で5月3日。新緑の季節だった。

◆近藤勇を処刑

中山道を進んだ東山道軍は二手に分かれ、3月13日までに江戸近郊に到着していた。途中、甲州・勝沼(現・山梨県甲州市)では新選組の近藤勇らが率いる甲陽鎮撫隊と戦っている。敗れた近藤は下総・流山(現・千葉県)に向かったが、4月3日に捕縛され、同25日に板橋で処刑されている。(参考文献・木村幸比古編著「図説 戊辰戦争」など)

◆慶喜、何とか生き延びる

徳川慶喜は会津藩主松平容保らを従えて大坂城を脱出、軍艦・開陽丸に乗り旧暦慶応4(1868)年1月12日に江戸城に戻った。この間、慶喜も容保も「朝敵」の烙印(らくいん)を押されている。以降の慶喜の動向をたどる。

江戸城に戻った慶喜は家臣の意見を聞いた。大半は反撃に転じる主戦論だが、同調しなかった。上洛を直訴した家臣が自刃する悲劇も起きた。

慶喜は救済を乞うようになる。新政府の重要閣僚である議定(ぎじょう)に就いた松平春嶽(前越前藩主)ら旧知の人物に手紙で心情を切々と訴え、朝敵解除の助力を求めている。

容保は慶喜に再挙を主張した。しかし、遠ざけられて2月8日、江戸城への登城を禁止された。そのため同16日から会津に帰り、恭順の姿勢を示しつつ軍備を整え、抗戦の決意を固めた。また、1月中旬以降に大坂方面から会津藩士が続々と江戸に戻ってきた。1月20日、慶喜は会津藩邸に負傷者を見舞ったが、藩士の中には強い不満をぶつける者もいた。

2月12日、慶喜は上野寛永寺で謹慎生活を始めた。実は出家の覚悟を固めていた。西郷隆盛の3月5日付書簡には「慶喜が沙門の身(出家者)になると言っている」とある。それでも新政府の対応は非情で、西郷は斬首か切腹を求め、救済の動きを封じて本人の謝罪書を差し戻している。

ただし、3月の勝海舟との会談前後で、西郷も対応が変わった。4月4日に慶喜の死罪は免じられ、水戸謹慎が決まる。慶喜は同11日に江戸を出発し、水戸に帰った。21年ぶりだった。その後、東北で戦争が続く7月、駿府に転居している。(参考文献・家近良樹著「徳川慶喜」など)

◆仙台藩、会津救済に動く

江戸城無血開城の前後には、江戸のほか関東、東北でも戦局が動いていた。

抗戦を主張する旧幕府兵は2月から、関東周辺で戦闘を繰り広げた。3月には軍制改革を進める会津藩に出向いて指導する旧幕臣もいた。江戸開城と同じころには、旧幕臣の大鳥圭介率いる旧幕府歩兵隊などが武器を持ち出して続々と脱走した。

大鳥隊は約2千人が下総・市川(現・千葉県市川市)に集結し、檄文(げきぶん)をばらまいて新政府軍に挑んだ。檄文では新政府軍を「官賊」と呼び、「錦旗といっても賊の手にあっては賊のためにしか働かない。賊旗に恐れることはない」と訴えた。

大鳥隊は、新政府軍に呼応した北関東の諸藩に攻撃を仕掛けて戦果を挙げた。宇都宮城を巡る戦闘では、4月19日に城を奪った。しかし、23日の反撃で撤退。日光で防戦しようとしたが、会津を頼って北上した。

江戸でも旧幕府兵の彰義隊が上野に陣取った。当初は徳川慶喜の警護が名目だったが、水戸謹慎後も動かなかった。新政府軍と対決姿勢をとり続け、江戸市中と新政府軍ににらみをきかせた。事態を重くみた新政府軍は5月15日、一斉攻撃で一掃。移築・現存する当時の寛永寺の門に無数の弾痕が残されている。

新政府は2月26日、奥羽平定に向け奥羽鎮撫総督に公卿の九条道孝らを任命。3月23日に九条らが仙台城下に入り、仙台藩に会津征討を急がせた。仙台藩は会津藩境に侵攻したが、水面下では会津救済に動き、奥羽諸藩による嘆願書を出している。江戸城無血開城とともに、戊辰戦争の戦火が「白河の関」に忍び寄っていた。(参考文献・「仙台市史」「会津若松史」など)

※「戊辰戦争」「明治維新」を新たな視点で問い直す長期大型連載「維新再考」は、引き続き福島民友新聞で毎週月曜日に掲載します。どうぞお読み下さい。

連載「維新再考」の保存版は、第1部「識者に聞く」のうち、「半藤一利さん編」(全7回)、「中村彰彦さん編」(全7回)、「磯田道史さん編」(全3回)、「森田健司さん編」(全7回)の4編があります。福島民友販売店で無料で提供しています。問い合わせは福島民友新聞社販売局(電話024・523・1472)へ。