【維新再考・100日間の攻防】白河編3 半日で700人の命犠牲に

「維新再考」白河編の第3回は、戊辰戦争の勝敗を決定づけたとされる「白河口の戦い」のうち、稲荷山での戦闘の行方に焦点を絞る。半日で奥羽列藩同盟側の兵700人以上が犠牲になった悲劇を会津会会長でNHK解説主幹の柳沢秀夫さん(64)=会津若松市出身=とかみしめる。

稲荷山のふもとにある会津藩墓所を訪ねる柳沢さん(右)ら。地元住民が長年、会津藩戦死者約300人の弔いを続けている=白河市松並

◆柳沢秀夫さんと歩く

「半日で同盟軍側が700人も戦死したのですか。このうち会津藩兵は300人も…」。柳沢さんはしばし絶句し、150年前の悲惨な状況に思いを巡らせた。

白河小峰城の南にある旧奥州街道沿いの要所・稲荷山を巡り、会津藩や同盟軍側は慶応4(1868)年閏(うるう)4月25日(以下旧暦)の緒戦で薩摩、長州、大垣各藩士計250人の新政府軍を蹴散らした。

◆人数勝る会津側大敗

これに対し新政府軍は兵を700人に増強し、5月1日早朝、猛烈な反撃に出た。主戦場は稲荷山一帯で、同盟軍側は2500人が迎え撃った。結論を言うと、この戦いで同盟軍側は約700人が戦死し、小峰城を放棄し敗走した。戊辰戦争で、たった半日でこれほどの戦死者を出した戦いはない。対する新政府軍の戦死者はわずか数十人という圧倒的な差だった。

「新政府軍は白坂宿から3軍に分かれ攻め込んだ」と、稲荷山周辺の住民有志でつくる白河会津戊辰戦死墓管理会の加藤正信会長(67)は説明する。新政府軍は正面攻撃の隊をおとりに、東西から城下を挟撃した。中心の稲荷山は銃火にさらされ、会津藩は副総督横山主税(パリ万博の幕府使節団に随行した英才)、軍事奉行海老名衛門(稲荷山近くの龍興寺脇の山中で自刃)ら指揮官を失った。小峰城は、瞬く間に占拠され、午後2時には戦闘が終わった。

城下の様子も伝わる。「町内の老若男女は一斉に逃げ出し(新政府軍の銃撃で)みるみるうちに死傷者が増える始末。(新政府軍)300余人の兵隊が雪崩のごとく突撃し(方角や地理に疎い同盟軍は)ただ狼狽(ろうばい)して右往左往するのみ」(白坂村郷土誌を編纂(へんさん)した石井勝弥の談)

会津藩の白河口総督は家老西郷頼母。会津に帰って後、敗北の責任を問われ家老を免職された。明治になっても世間から「腰抜け」「臆病者」と批判され「身を隠せるカタツムリがうらやましい」との意味の歌を残した。稲荷山には歌碑が建立され、戊辰戦争後の頼母の無念を想像することができる。

稲荷山のふもとには、地元住民が建てた「戦死墓」と戦死者名を刻んだ碑が並ぶ「会津藩墓所」がある。柳沢さんは献花と焼香を済ませ、じっと碑文を見つめた。加藤会長は「毎年6月の第1日曜日に地元住民による慰霊祭をずっと続けている」と説明し「敵味方分け隔てなく」と付け加えた。

道路を挟んで向かいには、閏4月25日の緒戦で戦死し、首がさらされた薩摩、長州、大垣の藩士13人の墓(後に薩摩藩7人は合葬墓に移され、現在は長州、大垣藩の6人)がある。どちらも同会が管理を続けている。

加藤会長は「白河の人々は『仁』の心でどちらも供養した。150年にわたり両軍戦死者を弔い続けたことが誇り」と言う。

すると「会津も『西軍墓地』はあるが『敵』という認識がぬぐえない。しかし白河は会津とは違うようだ」と柳沢さん。庶民にとって戦争は迷惑でしかなかったにもかかわらず「白河では他者をいたわる教えが今も生きている」と言葉をかみしめた。

◆世良暗殺が転換点、列藩同盟が誕生

会津藩救済に向けた仙台、米沢両藩主導の「白石会議」などを経て、1868(慶応4)年5月上旬「奥羽越列藩同盟」が成立した。この過程で歴史に登場するのが、今なお悪名高い奥羽鎮撫総督府下参謀(げさんぼう)の長州藩士・世良修蔵である。世良は閏4月20日、仙台藩士らに福島城下(現福島市)で斬首され、この暗殺が戊辰戦争の戦火が東北地方に広がる契機となった。

さかのぼって白石会議の翌日、閏4月12日。仙台、米沢両藩は奥羽鎮撫総督(公卿の九条道孝)に会津藩救済の嘆願書を提出。総督は13日、世良らに書面で可否について意見を求めた。「会津戊辰戦史」によると、世良は「会津藩主松平容保(かたもり)は朝敵で謝罪は許されない。速やかに進撃すべきと指令してほしい。賊を鏖殺(おうさつ)(皆殺し)すべし」と返答した。これを受けて鎮撫総督は嘆願を却下し、17日に仙台、米沢両藩に会津藩征討を厳命した。

世良の悪名に関するエピソードがある。「仙台戊辰史」によると世良は、訪れた米沢藩の使者に対し、芸妓(げいぎ)のひざ枕姿で応対し、公用書を足で蹴ったという。

こうした振る舞いが東北諸藩の反感を買っていたところに、嘆願却下である。これによって、仙台藩は世良暗殺の画策を始め、新政府軍に従っていた奥羽諸藩も会津藩征討の兵を解いていった。

運命の19日、福島城下の旅籠(はたご)金沢屋に宿泊中の世良は、同じ下参謀の薩摩藩士宛てに密書をしたためた。文面には「奥羽は皆敵」「仙台や米沢は朝廷を軽んじている」という言葉が並び、援軍要請を伝えていた。するとこの密書が仙台藩士らの手に入り、激怒した藩士らが世良を旅籠で捕らえ20日未明、阿武隈川近く(長楽寺付近)で斬首した。

暗殺は偶発的ではなく嘆願書提出に端を発した計画的な犯行とみられている。

世良はなぜ、会津藩主の首を求める強硬姿勢をとり続けたのか。背景には2月17日、東征大総督(旧幕府側勢力を制圧する軍司令官)が発した「容保は死罪」との基本方針があった。実質的には、東征大総督の有栖川宮熾仁親王に代わり、参謀の宇和島藩士が独断で指令を出しており、世良はこの指令に忠実だったと言える。そして会津藩救済を考えた東北諸藩の連帯は、新政府軍に対抗する軍事同盟に変化していった。

やなぎさわ・ひでお 1953年、会津若松市生まれ。会津高、早稲田大政治経済学部卒。会津藩士の子孫。77年にNHK入局、横浜、沖縄各放送局記者を経て84年から外信部記者。バンコク、マニラ各特派員、カイロ支局長を歴任しカンボジア内戦、湾岸戦争などを取材した。現在はNHK解説主幹で、生活情報番組「あさイチ」に3月まで出演していた。2017年から会津会(東京)の第8代会長。64歳。

※「戊辰戦争」「明治維新」を新たな視点で問い直す長期大型連載「維新再考」は、引き続き福島民友新聞で毎週月曜日に掲載します。どうぞお読み下さい。

連載「維新再考」の保存版は、第1部「識者に聞く」のうち、「半藤一利さん編」(全7回)、「中村彰彦さん編」(全7回)、「磯田道史さん編」(全3回)、「森田健司さん編」(全7回)の4編があります。福島民友販売店で無料で提供しています。問い合わせは福島民友新聞社販売局(電話024・523・1472)へ。