【維新再考・流転の地】斗南編1 故郷失い斗南へ

会津の人々が上陸した青森県むつ市大湊の海辺。朝日の方角には、陸奥湾と雪に覆われた下北半島の“柄”が広がる

150年前の歴史の大転換、明治維新について福島の視点で問い直す「維新再考」は、第3部で戊辰戦争後の人々の歩いた道をたどる。焦点は本州最北の地「斗南(となみ)」。敗戦で故郷を失い、現在の青森県東部へと移り住んだ会津の人々の苦闘と再起について、幕末・維新史に詳しい作家の星亮一さんが語る。

ほし・りょういち 1935(昭和10)年、仙台市生まれ。東北大文学部国史学科卒。日大大学院総合社会情報研究科修士課程修了。元福島中央テレビ報道制作局長。戊辰戦争研究会主宰。「奥羽越列藩同盟」「会津落城」「明治維新というクーデター」など著書多数。先祖は仙台藩重臣・佐藤宮内の家中で、戊辰戦争・白河口の戦いにも参戦した。郡山市在住。

戊辰戦争最大の激戦、会津戦争の終結から2年後の1870(明治3)年。海路や陸路で北へと向かう老若男女の姿があった。旧会津藩士と家族、ゆかりの人々だ。

目指すは元南部藩領で、下北半島を中心とする陸奥の地。戊辰戦争の敗北後、「滅藩」となった旧会津藩が、斗南藩3万石として再興を許された場所だった。

この集団移住を指揮したのが旧会津藩家老(斗南藩権大参事)の山川浩(大蔵)、当時24歳。北辺の地で、1万人を超す人々と新しい国づくりを決断した。

しかし新天地は、冷たい風が海から吹き、飢饉(ききん)を繰り返してきた土地だった。過酷な開拓生活に人々は、これが「流罪」であることを思い知った。

◆リーダー登場、遅すぎた

斗南(となみ)へ赴いた会津の人々の苦難と再生への道のりをたどる前に、会津人が流罪に服すような逆境に至った理由を考えてみたい。

直接の理由は当然、戊辰戦争での敗北だが、ならば、なぜ戦争は起き、会津藩は敗れたのだろうか―と言うことだ。

結論から言えば、それは時代や状況を見極めることのできるリーダーがいなかったからだと思う。

幕末、幕藩体制は転換期にあった。鎖国の間にも、市民革命や大統領制度といった海外の情報は入ってきた。幕府中心の体制に疑問を持つ人々が出てくるのは当然の流れで、幕臣でも福沢諭吉や西周などが「今の体制では、世界の中で日本はもたない」と、幕府の改造計画を練っていたりもした。

つまり薩摩、長州両藩だけが新しい時代を指向したのではなく、何人もが新しい時代に対応できる日本について考えていた。さらに、この流れに、ペリー率いる米艦隊の来航が拍車を掛けた。

だが、権力とは保守的なもので、幕府内の改革派はごく一部。対して中国に近い薩摩や長州には海外の情報が多く入り、幕府との意識の違いが大きくなっていった。

一方、会津は特殊な藩だった。会津松平家の始祖、保科正之は徳川家康の孫。ある意味、徳川直系だ。そして、保科正之が定めた松平家家訓(かきん)十五箇条の第1条には「幕府のために」とある。

この第1条を理由に、会津藩主の松平容保(かたもり)は、福井藩主松平春嶽から、尊皇攘夷(じょうい)派の浪士が流れ込む都で治安維持を担当する京都守護職への就任を説得された。この大役は覚悟も財力も必要で、家老の西郷頼母は「無理だ」と止めている。しかし、容保は正直なゆえに藩祖の定めを守り、会津藩は争乱の渦に巻き込まれてしまった。

体制の不備もあった。容保の京都守護職就任後、京都で指導的な立場に立った会津藩だが、現行のシステムでは、激動する情勢には対応できない。そこで藩は情報収集などに当たる公用局を置き、秋月悌次郎や広沢安任など学問に秀でた30人ほどの藩士が公用方として所属した。

しかし、肝心の軍事担当がいなかった。

一方で長州藩は洋式軍隊を整備しつつあった。会津藩も、この京都時代、軍備を見直していれば、悲劇的な結末には至らなかったと思う。京都駐留の多大な財政負担がネックではあったのだろうが。

その後の戊辰戦争の推移を見ても、会津藩内の軍事に精通したリーダー不在は明らかだ。さらに、新リーダーの登場を阻んだのが、世襲制の順守、能力主義の欠如だったことが浮かび上がる。

例えば白河口の戦い。会津など奥羽越列藩同盟の防衛方針は、この東北の関門で「西軍を止める」ことであり、戊辰戦争の流れを決する重要な戦いだった。

しかし、そこで負けたのは、軍事力の差もあるが、最大の敗因は会津藩の軍事総督に就いた家老西郷頼母が軍事の素人だったことだ。頼母の家は代々国家老。司令官が家柄で選ばれた。これは頼母にとっても悲劇だったろう。

戦闘に加わった新選組の隊士たちは「白河城の争奪では負ける。ゲリラ戦で戦うべきた」と言っていた。だが会津藩は「そんな姑息(こそく)な戦法は採らない」とはねのけ、城の争奪にこだわり続けた。

その後、西軍が一気に若松へ迫ると、城下は大混乱に陥った。それは、敵の城下侵攻をあまり想定をしていなかったからだろう。城内の備蓄は、古米が少しあるだけ。城内に残った世襲の家老らは、軍事の専門家ではなく、気の毒に何をしていいか分からず、白河などから戦闘部隊が戻ってくるまで何ら作戦を立てられなかった。

◆山川浩、再生の任負う

そして会津藩は、籠城戦となり、ようやく実力者が指導的な立場に立つに至った。自刃した田中土佐、神保内蔵助らの席を埋める形だが、新たに家老に就いたのが、前線で指揮を執り、人望のある山川大蔵(後の浩)、佐川官兵衛だった。山川は父も家老ではあるが、このとき弱冠22歳だった。

会津藩は教育水準の高さで知られ、優秀な人材を輩出した。ただ家訓や、長幼の序を重んじる朱子学の教えに縛られすぎた。物事の正負両面を見て分析をしなければ、状況を見誤る。戊辰戦争は新政府側から仕掛けられた戦争ではあったが、会津藩に柔軟性があれば、少し違った結末だったのではないかと残念に思う。最後の最後に、才能ある新リーダーが登場したことは、なんとも歴史の皮肉だ。

だが、そのリーダーの一人、山川浩は、その後、斗南の地で人々を率いることになる。破滅から再生へ向かうとき、新しいタイプの指導者が現れるのは歴史の必然だろう。山川はまさに、会津人再生の任を背負った人物だった。

※「戊辰戦争」「明治維新」を新たな視点で問い直す長期大型連載「維新再考」は、引き続き福島民友新聞で毎週月曜日に掲載します。どうぞお読み下さい。

連載「維新再考」の保存版は、第1部「識者に聞く」のうち、「半藤一利さん編」(全7回)、「中村彰彦さん編」(全7回)、「磯田道史さん編」(全3回)、「森田健司さん編」(全7回)の4編があります。福島民友販売店で無料で提供しています。問い合わせは福島民友新聞社販売局(電話024・523・1472)へ。